サイフォンの原理、あるいは「重力」も「大気圧」も同じくらいガサツ
自分用の覚書。
[2010-05-24](補遺みたいなものを書いた:サイフォンについてのいくつかの蛇足 - あらきけいすけの雑記帳)
[2010.6.15]数式を用いたハードバージョンを書いた:理系学部の学部生のためのサイフォンの原理 - あらきけいすけの雑記帳
[2011.1.8] Wikipedia のサイフォンの原理の説明が2010年12月25日付の改稿でそれまでのひどい説明から別のがさつな説明になっていた。ベルヌーイの定理を管内の流体の運動に適用すると、現実と整合性の無いデタラメな結論が出てしまう。
[2014.1.1]サイフォンの動作の誤った説明、とくに「ベルヌーイの定理」で説明できないことについて詳細に議論したエントリを書いた:サイフォンの原理とそれにまつわるいくつかの誤概念について - あらきけいすけの雑記帳
なんかはてぶで話題になってた
誤った「サイホン」の定義、世界の辞書に1世紀 豪の物理学者が指摘 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
[B! 科学] 誤った「サイホン」の定義、世界の辞書に1世紀 豪の物理学者が指摘 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
これを読んで、小学校のときのなぞなぞを思い出してしまった。
Q「雨が降るのはなぜでしょう?」
A「重力があるから」
所詮は新聞の記事だから、記者がインタビューか何かをした内容のほんのかけらしか伝わっていないはずだ。「重力」ってのもウソじゃないけど何が言いたいのか分からない。「ニセ科学」とまでは言えないけれど、十分に「非科学的な」まとめ方だ。言っちゃあ何だが、ブクマしているみなさんの書き方も分かっているんだかどうだか怪しいものが多い(ゴメンなさい)。わけが分からないままというのも癪に障るので、適当に補って考えてみようと思う。
結論を先に書くと
たしかにサイホンを駆動しているエネルギー源は重力の位置エネルギーだが、そのエネルギーの解放のメカニズムをきちんと説明しない限り、大したことを言ったことにはならない。で、Wikipediaで説明されているサイフォンのメカニズムのイメージは間違っている。というのも、サイホン内の流体には「流体が大気圧で押し上げられる」方向の力がかかっているからだ。[追記]ついでに言うと「ベルヌーイの定理」で説明はできない。
「重力」によるの部分をもうすこしだけ高校の物理っぽく説明をしてみよう。まず最初の状態と、最後の状態を見比べて見ると、図の赤い部分にあった液体が、青い部分まで「落ちて」いるから、液体全体の位置エネルギーは低くなっている。そう、エネルギーの低い「より落ち着いた状態」になったんだ。そして、その液体の移動のエネルギー源はというと、最初の状態の重力の位置エネルギーだ。そういう意味では、「重力」という説明もあながち間違いとも言えない…ような気がする。
でもこの説明では「エネルギー源が何か?」という問題には答えているけれど、「その位置エネルギーを解放するメカニズムは何か?」という問題には答えてはいない。
位置エネルギーの解放の簡単な例として「手に持ったボールを手放すと、落ちる」ことを考えよう。これだと「ボールにかかる重力とボールを支える手の力が釣り合って動かなかったものを、その釣り合いを崩して、重力だけにする」ことでエネルギーを解放している。
ではサイフォンの場合、この「釣り合いを崩して、エネルギーを解放するメカニズム」は一体、何だろうか。
それには、わざと「釣り合っている」ときのことを考えて、そこからバランスを崩すことを考えてみるのもいいかもしれない。
もしも、サイフォンの高さが10mを越えていたら*1、サイフォンの上部に「真空*2」ができてしまい、右と左とで液体のやり取りは起きないだろう。(環境の気圧が1000hPa程度だと10mの水柱が必要だけど、真空ポンプを使って低圧の環境を作れば、そんなにノッポのサイフォンは要らない*3。)
[2013.6.16追記]NHKの番組『大科学実験』の『実験33:水のハイジャンプ』(初回放送 2012.11.17)でこの10m超サイフォンを実際に実験し、水柱が10mで途切れることを実証している。今回の実験「水のハイジャンプ」|大科学実験 -大科学支援- NHK Educational Corp.」|大科学実験 -大科学支援- NHK Educational Corp.
じゃあここで思考実験を一つしよう。
この各々の水柱が大気圧と釣り合った状態で、この二つの柱の間をパイプで繋いだらどうなるだろう?
もちろん、サイフォンができる。
じゃあ、どれくらいの勢いで液体は流れるんだろう?
水の流れる勢いは、水にかかる圧力で決まる。水圧が高いほど流れる勢いは強くなるはずだ。
その圧力を測る方法はないものだろうか?
実は、この「10m超サイフォン」の思考実験には2個の「圧力計」が備わっている。
パイプ部分の上にある水柱の高さが、パイプ部分の水にかかっている水圧を表しているのだ*4。これを言い換えると、「パイプ部分にかかっている圧力は、その上にある水柱を支えられるだけの「力」を持っている」ということになる。
この図の場合、パイプの左側の水圧は図の赤い部分の高さの分だけあり、パイプの右側の水圧は図の青い部分の水柱の分だけである。つまり「左側の方が、より水圧が高い」。だから「左から右へと水が流れる」のである。
それではいつまで流れ続けるのかというと、「パイプの両端の圧力が同じになるまで」、すなわち「赤い水柱と青い水柱の高さが同じになるまで」である。
ここで水柱のてっぺんの高さはどれくらいかというと、それぞれの容器の水面から10m上の位置に必ずなっているから、「赤い水柱と青い水柱の高さが同じになる」ときは「両端の容器の水面の高さが同じになるとき」である。つまりサイフォンの両端の容器の水面が同じになったときに、流れは止まる。
[2015-06-15]
ここでいくつかの注意しておきたい。
まず、サイフォンに出てくる圧力はすべて「押す力」であり、「押す力同士のせめぎあいで、強いほうから弱いほうに、水が流れる」ということである。(「押す力」の意味については下に詳しく説明した。)だから Wikipedia のサイフォンの項目にある
サイフォンの仕組みを理解するためには、長く、摩擦のない列車が平原から丘を越えて平原より標高の低い谷へと伸びている姿を想像すればよい。丘から見て、平原より低い部分に列車がさしかかっていれば、丘から谷へと滑り込んでいく部分が残りの部分を丘へと引っ張り上げ、谷へと導くことが感覚的に理解できるはずである。という説明はイメージが正反対で間違っている。
サイフォン - Wikipedia
それから「大気圧で押されているから」という説明も、言葉足らずである。というのも、容器の水面にかかる大気圧は、サイフォンの両端にある容器の双方で同じだからである。圧力の差を生み出している機構は、大気圧そのものではなく、左右の各容器の水面からサイホンのてっぺんまで(「10m超サイフォン」では、あとで繋いだパイプの方まで)の高度差の違いである。
だからブクマの中でまともな説明になっていたのは id:BUNTEN さんの
BUNTEN 雑記 大気圧と重力の合力の差(大気圧の差は無視できる程度)が動力になると思っていたが違うのか? とりあえず高さ10mを超えるサイホン作れば大気圧も不可欠なのかどうかはわかるだろう。 2010/05/15くらいしかない。
まとめよう
サイフォンのエネルギー源は容器の水面の差で決まる重力による位置エネルギー。流体を流す力の供給源(ポンプ)は大気圧だが、これは「供給」「受容」の双方で同じなので、流体を動かす力の説明になっていない。動かす原因となる力は、容器の水面とサイフォンの高さの差で決まる正の(押す方向の)圧力であり、これが供給側と受容側で食い違うから流れる。「真空が出来そうになってパイプ内の流体が引っ張られる」というイメージはサイフォン内の流体にかかる
…というわけで「重力」と言っても、「大気圧」と言っても、「何に」「どのように」かかり、何が流体の「釣り合い」を崩して水の移動を促すのかを言っているのかハッキリさせようとしない限り、科学者の嫌う一種の安直な「一問一答」クイズ的な「言葉遊び」に過ぎないように思われる。
追記 2010.5.21
ブクマ、トラバの中のいくつかにコメントをします。
id:ROYGB さんからブクマ、トラバで丁寧にご指摘いただいたように「押す力」に関連して、「注射器やピペットで液体を引くようなイメージ」と書いた部分は説明の例として良くなかったと思います。ROYGBさんが図示なさった状況で、確かにこれも「押す力」になります。(この部分については別ルートで別の方からもご指摘をいただきました。)
………
「押す力」という言葉がとても舌足らずだったので、補足説明したい。「真空を基準とした圧力の大小(圧力の絶対値)」ではなく、「流体の各部にかかる圧力の向き」の話のつもりだったのだ。ボクがサイフォンの説明の「押す力」で表現したかったことは、流体にかかる力を細かく見ていったときに
流体には流体を押し縮めようとする方向に圧力が加わっているということだ。逆にボクが「ピペット」を出してずっこけたときに言いたかったことは、流体にかかる力を細かく見ていったときに「引く力」、ここでは
流体を引き伸ばそうとする方向に圧力が加わっていることであり、このようなイメージになる説明は、サイフォンの説明としては、良くないだろうということだ。Wikipedia (日本語版*5)の説明は明らかに後者である。「引く力」のサンプルには次のようなものがある。海のように大きな容器に注射器 (断面積 S, 水面からの高さ h)を入れてゆっくりと一定の速度 u で引く*6。注射器の液面からの高さを h とすると注射器のピストン部の壁面の圧力は ρgh [Pa]*7,液体には「ピストンに引かれる向きに」力がかかる。いま液体の速度は一定なので、流体にかかる力は釣り合っている。力の向きはピストン側の面でピストンを向く向き、パイプ側の面でパイプを向く向き。
で、肝心のサイフォンの方だけど、
これが「サイフォンに出てくる圧力はすべて「押す力」」で言いたかったことです。
■ふにゃふにゃの素材でサイフォンは作れない
同じく ROYGB さんのご指摘:ふにゃふにゃしたチューブだと潰れてしまってサイホンが成り立たないことから考えると、“注射器を繋いで、両側から押すようなイメージ”も適切ではないかも。サイズによる程度の差はあるけど、サイホンのチューブ内部の圧力は大気圧よりも低くなり、大気圧との差で潰される力が働くので、それに抗して形を保つだけの強度が必要。「注射器つなぎ」は流体にかかる圧力の向きの話をしたかったのでご寛恕願いたいが、確かにサイフォン内の流体の圧力はどこをとっても大気圧より低いので、ふにゃふにゃした素材だと潰されてしまう。
2010-05-19
[2013.6.16追記]NHK『大科学実験』の『実験33』では、最初に実験に利用していたパイプが最上部の高度を上げるにつれて内側に潰れてしまい、より径が大きく頑丈なパイプで実験をやり直すところが紹介されている。
■「ベルヌーイの定理」を言い出す奴は勉強不足
(2010.6.1 追記:水理学業界でベルヌーイの定理と全く同じ形の式を用いて粘性流体の運動を概算する方法があるようだ。)
流体力学のプロなら、ベルヌーイの定理が使えそうにもないことはすぐに分かる。というのも、ベルヌーイの定理は
という「4ない条件」の下でしか成り立たないからだ。いまの問題では「粘性がある」、おそらくパイプ内はポワズイユ流れっぽくなっているから「渦がある(curlU≠0)」、乱流になってれば「流れに時間変化がある」ので、「流体が縮まない」くらいしか条件が満たされていない。前提条件を吟味せずに公式を振り回すのは、「出来の悪い学部学生」の特徴である。
ベルヌーイの定理は摩擦による損失が無視できるような条件、言い換えると「エネルギー保存」がそこそこ成り立っている場合にしか使えない。
■もし「ベルヌーイの定理」が成り立つような条件だったら?
もしいまのサイフォンの問題でパイプに摩擦がなかったり、流体に粘性が無かったらどうなるだろう?答えは「単振動」が起こる。だって「重力による位置エネルギー」が「物質の速度エネルギー」に変わるだけのシステムになるからだ。
だから「ベルヌーイの定理」を言い出せる条件下では、「単振動が起こる」というのが正解でベルヌーイの定理の出番は無い。
■この場合「ベルヌーイの定理」は役に立つのか?
[2011-01-08]厳密には成り立たなくても大雑把な見積もりに使えるなら、まだいい。
ところが、ベルヌーイの定理の式 ρv2/2 + ρgz + p = (定数) を管の直径が一定のパイプ(要するに普通のホース)に当てはめると間違った結論を出してしまう。
というのも、管の直径が一定で流体が縮まないので、vが管のどの断面をとっても一定になってしまう。式でいうと
v = (一定) なので、ρv2/2 = (定数) かつ ρgz + p = (定数)となってしまう。この2番目の結論がくせものなのだ。
この2番目の式をz-方向に微分すると ∂zp + ρg = 0 となる、これはパスカルの原理の式(パスカルの原理 - Wikipedia)に他ならない。そしてこれは静止している流体で成り立っている式である。運動している流体を議論しているはずなのに静止流体の式が導かれてしまうのは、考え方におかしい部分があるからである。
簡単な計算でわかることだが、ベルヌーイの定理を無思慮に振り回した結果の式 ρgz + p = (定数) を高液面側の液面の高さを z=0 の基準に、そこでの圧力を p=patm の条件で計算をすると、低液面側の圧力の値が p = patm + ρg H (Hはサイフォンの両液面の高さの差)となり、実際の値 p=patm と食い違ってしまう。現実と異なる答えを出す計算は役に立たない。
ただしい考え方はパスカルの原理から出発して
- サイフォン内の流体を静止させるために必要な力を求める
- 計算をすると、低液面側の出口のところで圧力 ρg H に相当する力で「ふた」をしないといけないと分かる
- しかし実際には、流体の力を支える「ふた」なんてないから、流体は ρg H の圧力で管から押し出される
と考えないといけない。
定理を安直に振り回すのは思考の欠如である。
■この場合「ベルヌーイの定理」は役に立つのか?(旧バージョン)
厳密には成り立たなくても大雑把な見積もりに使えるなら、まだいい。ところが、ベルヌーイの定理の式 ρv2/2 + ρgz + p = (定数) を「10m超サイフォン」の思考実験に当てはめると矛盾が生じる。
「10m超サイフォン」の「後付けパイプ」の部分の流体を考えよう。まずパイプが水平なので*10「 ρgz の項はパイプの中で一定の値になる」、流体は縮まないのでパイプのどの断面をとっても流量は一定である。したがってパイプ内の平均の流速はどこの断面でも一定である。したがって「ρv2/2 の項はどこの断面をとっても一定の値になる」。だから「ベルヌーイの定理が成り立つと仮定すると、「パイプの中のどの断面をとっても圧力 p の値が一定の値になる」。
これは「パイプの両端で圧力に差がある(だから流れる)」という基本的な事実と矛盾する。
現実には圧力差による力は、粘性による摩擦とつりあってしまい、いわゆる「ハーゲン・ポワズイユ流」と呼ばれる放物線型の速度分布を持つ流れになる(もしレイノルズ数が低ければね)。
そもそも「ベルヌーイの定理」のキモは流体の塊が、流れている最中に速度が速くなったり遅くなったりしたときの状態の比較に関するものなので、サイフォンのように管の太さが一定で流れの速度が変化しないような現象にあてはめても流体の状態に関する有意義な情報は出てこない。
公式を振り回して解決するくらいなら、誰もサイフォンの問題なんか間違えない。
もしベルヌーイの定理で説明してあるページがあれば、ぼくは
これは「ニセ科学」とまでは言えないけれど、十分に「非科学的な」まとめ方だ。で始まるエントリを上げるだろう。[2010.5.23 追記]…あったよ。orz Wikipedia 日本語版の「関連項目」に
ベルヌーイの定理 - サイフォンの挙動を定義する定理。とある。記録を見れば(参照)サイフォンの項目の最初の書き換えで Gleam という著者が書き込んでいる。
*1:一応、液体は「水」(密度は 1000 kg/m3)、重力加速度は約 10 m/s2, 環境の温度は「常温」(300K程度)ということにしておくね。
*2:真空というのは厳密にはウソで、環境温度での蒸気圧と釣り合う程度の薄い水蒸気が満ちているはずだ。
*3:このページ http://www2.hamajima.co.jp/~tenjin/labo/siphon.htm で示唆されている。
*4:液柱ゲージになっている。参考:圧力測定 - Wikipedia
*5:英語版の記述はボクの記述と同じ内容になっている。でも「列車の例え」が続いていてグダグダになっているけどwww
*6:「ゆっくりと」引く理由は計算で粘性の影響を極力小さくして、無視したいから。
*7:この計算はピストン内に水を引き上げることで、水は位置エネルギーを獲得しているから、その仕事率から壁面にかかる力を求めればよい。入る水が位置エネルギーを獲得する際の仕事率は ρghSu [Nm/s] である。この仕事をしているのがピストンを引く力 F [N] だから仕事率の方程式は Fu=ρghSu となる。だからピストンの面の平均の圧力は P=F/S=ρgh [Pa] となる。
*8:バロトロピック、すなわち ∇p/ρ=∇Q となる Q がある場合でも成り立つけどね。
*9:ベルトラミ流 curl U // U でも成り立つけどね。
*10:これは意図的に水平でまっすぐなパイプを繋ぐ話にした。U字に曲がった管だと理論の肝心な部分の理屈が見えづらいからだ。