我が家の掛け算順序問題

ここしばらく「掛け算順序問題」が再燃しているようだ。前回の「炎上」は2010年11月頃だった*1。前回と異なるところは、個人的には我が家に小学2年生がちょうどいることだ*2
そこで先日のこと、典侍

7人の子供に飴ちゃんを3個ずつあげるとき何個いるでしょうか?*3
と話を振ってみた。ちゃんと「21こ」と答える。
「どうやって計算したん?」
「さん しち にじゅういち
もんだいに出てくる数字とかけ算のじゅん番がちがうことがあるってならった」
と即答してくれた。おお、きっちりと 洗脳されて 学習が徹底していている(^^;
ボクは日頃、大学で初年時の数学を教えていて、ときどき理系の大学教育の水準で見れば「LD」「ディスカルキュリア」の傾向があるとおぼしき学生の面倒を見ることがあるのだが、そんな僕にとっては親として何が嬉しいかというと、ラッキーなことに典侍にはLDの症状が見られないということだ。特に文章題の計算において「筆算で書き出す数の順序」と「問題中に現れる語の順序」の間に可換性が成立していることを理解しており、その操作がほぼ自動的に実行できるという、メタレベルの交換操作ができていることが嬉しい。
言い換えると、「掛け算の順番がああだこうだ」と小学校の現場で編み出された「ノウハウ」*4に可換性という「数学的な正論」を掲げてケンカをふっかける*5ような、メタ水準で見ると議論の水準がかみ合うはずのない水掛け論以前の話として、今回の何気ない会話で気付いたこととして
  1. 文を文節に分解して各要素を独立して理解し、
  2. 全体の文意を理解し、
  3. 要素間の可換性を理解し、
  4. 数式として表現する際に文中の数要素に「ユニット(単位、単価)」「数量」の意味があることを理解し、
  5. 「ユニット」「数量」の順で筆算を書き下すというルールが設定されていることを理解し、
  6. ルールに従って演算を書き下し、実行できる
という(多分、大抵の小学2年生には簡単だろうけど)複雑な「知能機械」の動作が起こっており、典侍は全部、実行できたということだ。「掛け算」以前の高度な「可換性」を自在に操作できている(逆にこの言語要素間の可換性を操作できない子供にはこれほど過酷なことはないだろう)。ここまでの操作ができるなら、いまのところ能力的な面での問題はない。(国語の問題で複文を理解するのが少し苦手っぽいのがちょっと気になっているけど。)


…いずれ、中学を卒業するまでの間に、「掛け算の順序にこだわること」が下らないことに気が付くだろう。


…それまでの間に、ものの理解の仕方は多様であり、自分では常識以前の自然な考えであっても人によっては理解や遂行が難しいことがあり、そんな多様な人がいることを受け入れて一緒にやっていくような心構えになるように、ボクは典侍を育てられるだろうか?


ボク自身は「掛け算順序問題」を「ノーマライゼーション」の問題として見続けるつもりだし、親としては子供の成長を長い目で見て「中学卒業までに四則演算を自在に応用できること」という目標の1エピソードとして考え続けるつもりだ。

*1:ボクも「参戦」した:「3×5≠5×3」なんて指導するくらいだから、「日本人には創造性が無い」「創造性の芽を潰す」と言われるのももっともだ - あらきけいすけの雑記帳

*2:「3さいたんてい」の検索結果 - あらきけいすけの雑記帳

*3:もちろん意図的に、人数(ユニットの数)を個数(くくりのユニット)より先に言った。

*4:5人に飴を4個ずつ配ると飴はいくつ必要か 赤ペン先生回答|NEWSポストセブン
この中の

2:割合の考え方への拡張が自然にされる
《(1つ分の数)×(いくつ分)》という式は《(1つ分の数)×(何倍)》とも置き換えて考えられ、もとにする量の何倍かを求めるということは、割合の考え方につながります。「何倍」の部分は整数倍から小数・分数倍へと拡張し、《(もとにする量)×(割合)=(比べられる量)》という式になり《(割合)=(比べられる量)÷(もとにする量)》という割合を求める式に自然とつながります。
を見ると「割り算への導入」を意識した長いスパンを見据えた教え方(=論理的根拠の無い実践的ノウハウ)なのだが、文中の
《(もとにする量)×(割合)=(比べられる量)》
⇒《(割合)=(比べられる量)÷(もとにする量)》
の学習する概念の進展の流れの部分の記述を
《(割合)×(もとにする量)=(比べられる量)》
⇒《(割合)=(比べられる量)÷(もとにする量)》
に書き換えても、「自然さ」において大差が無いように感じられて仕方が無い。学校の先生(=杓子定規)の「自然」ほど先入観を隠し持った胡散臭いものはない。

*5:TwitLonger — When you talk too much for Twitter
こういうことを根気良く言い続ける人も必要なんだろうなあ。