「終戦」という件名のメール

母の携帯からメールが来た:

今日は戦争が終わった日、私は満州通化におりました、今日を境に日本へ帰るための準備に追われる日が続きました、日本を見たのはたしか8月25日だったとおもいます、62年も前の話です
携帯に電話をかけると、当時の話をしてくれた。忘れぬうちにメモを残す。
当時10歳であった母は防空壕の中で、0歳の叔父を背負って、七輪の上にオーブンを置いてクッキーを焼かされたそうだ。クッキーは当時7歳の叔父のリュックサックに詰めて、日本への帰路の食となったという。(かなり大量に焼かされたのだろう。)帰路の母のリュックサックの中にはアルバムから剥がした写真とセーターが詰まっていたという。家族全部ではトランク5、6個の荷物を抱えて、朝鮮半島を南へと向かう列車に乗ったという。乗った車両は有蓋貨車で、ドアを閉めると中が真っ暗になってしまう代物であったそうだ。母は途中、何度か小窓を開けて換気をしたことを覚えているという。
門司に着いたのは25日、佐世保にたどり着いたのは26か27日。実家のある俵町に向けて帰るつもりだったが、着いたときは夜遅くで、期待していた小佐世保行きの列車も無かったそうだ。仕方なく祖父は今夜は駅でトランクの張り番をすると言って、祖母と母達を俵町に向けて送り出したそうだ。歩き出したものの佐世保の町は焼け野原で、様子がなかなか掴めなかったようだ。戸尾町のあたりまで行ったところで、焼け残っていた親類の農機具屋を起こしてリヤカーを借りて、駅に戻ると家族全部の荷物と当時3歳の叔母を載せて、俵町までリヤカーを押して帰ったそうだ。
2007年、兄弟姉妹4人とも健在である。多分、当時の状況をしっかりと記憶しているのは母しかいないだろう。