左巻先生のリストを見てわからなかったこと

市民の科学技術リテラシーとしての基本的用語[さまき隊的科学と環境と仕事と遊び 2007.9.23]を読んだ。

左巻先生のご説明、提示されたリストを見て、いまひとつ判然としないことがある。それはこの「科学技術基本用語事典/辞典」を国語辞典的に編集するおつもりなのか、百科事典的に編集するおつもりなのか分からないということである。「事典」と銘打っておられるので後者だとは思うのだが。

ではこの二者の相違は何か。

まず国語辞典は各項目に「定義」が与えられ、それを読むことで完結的に知識が手に入るように作成する。ひとつの語を調べるのに、他の語の語義の参照をするようなことはない。このような編集方針を採るならば、語彙はなるべく網羅性を持つように選択されねばならない。このような編集方針の書籍としては培風館の物理学辞典がある。

一方、百科事典は知識の「幹」となる語を「大項目」として立て、知識の「枝葉」となる語をその大項目の解説の中で説明することで、語に関連する知識の全体を体系的に提示するよう編集し、枝葉となる語を探すために巻末に網羅的な索引を付ける。このような編集方針の書籍としては岩波書店の数学辞典がある。(この書物がなぜ数学「事典」でないのか訝しい。)

もちろんこの中間の編集形態もあろうかと思うが、どちらに近いスタイルを採ろうとしておられるのか分かりにくいと思った。

なぜこのようなことに思い至ったかというと、生物学の項目に「免疫」「アレルギー」「ABO式」「ワクチン」があるが、「抗体」「抗原」が無いと思ったからである。もしここで編集方針が前者ならばこれら全ての項目が立っていないといけないが、後者ならば「免疫」の項目を立てその中で体系的にこれら事項を説明し、巻末索引にこれらが全部挙がるという編集の仕方が考えられるだろう。(だから「抗体」が無いと目くじらをたてなくても、執筆の段階で自然とこの語が入るだろう。)

そう思って他の項目を見直してみると、「大項目」的に見える語とそうでない語が雑然と並んでいるような印象を受けた。なにぶんにも項目名だけをざっと見た際の主観的な印象に過ぎないので、例えばWikipediaのように議論のプロセスを外からうかがい知るとか、完成した事典を見れば、語彙選択に関するボクの疑問も氷解するかもしれない。

個別の項目について「あれがない、これは余計だ」というコメントならばいくらでもつけることができるとは思うし、自分の「本家」の日記にダラダラと思いつくままに書き連ねてみることもした。書き連ねて見直してみると、そこには統一性がなかった。所詮はしろうと、理科教育門外漢の単なる思い付きの羅列に過ぎなかった。そのあたりの語の取捨選択は編集の方針に大きく依存するので、下手にコメントしても左巻先生をはじめとする編集のかたがたの貴重な時間、労力をむだに割くことになると思った。(ひょっとしたら「抗原」「抗体」も候補に挙がって、なんらかの正当な理由で削られたのかもしれない。)

非建設的な意見で申し訳ありません。

参考文献:加藤周一『百科事典の使い方』(加藤周一著作集16『科学技術時代の文学』p.362,平凡社,1996,asin:4582365167)

[追記]左巻先生のブログのコメント欄に次の記載、回答があった:「はじめ1万何千もあったのが約8百にしぼった」「「抗原と抗体」はずっと残っていたのですが、この段階で「免疫」の中で、になりました。「免疫」には、解説の中に「抗原、抗体、B細胞、T細胞、ヘルパーT細胞、ナチュラル・キラー(NK)細胞、マクロファージ(大食細胞)」などがふくまれる予定です」ということで、個人的には「完成品」を口を開けて待つことに決定。