宮崎アニメ『ゲド戦記』を見た

テレビ放映されたものを録画していたのだが、ようやくそれなりにじっくりと見れた。たしかにこれはル・グウィンアースシーの物語ではない。原作ではアースシー世界のバランスが崩れたのはクモがこの世とあの世の境目のフタを開けてしまったためだが、映画では何も語られないし、クモをやっつけてバランスが回復したのかどうかも分からない。というか映画に描かれた世界ではバランスが崩れていることが説明的に表現されるばかりで実感がないので、ゲドがなぜ旅をしているのか(世界のバランスの回復という解決を目指して行動しているのか)も判然としない。(もちろん説明的な台詞はいくらもある。)それに……言い出すと際限がないのでやめる。

多分、宮崎監督の発明だと思えるもので良かったもの

  • アレンの「影」が実はアレンの「光」(「良心」「抑制」といったもの)の部分であり、アレンの本体が実はキレまくりの壊れかけのにいちゃんで、制御のない激情、不安といった、ユング的な意味での「影」に支配された状態であること。アレンの本体も影も苦しみまくっている。
     最後に両者は統合されて、ようやくアレンは自らの罪を贖うことが出来る人間になっている。
  • アレンの父親殺しの動機、背景が最後に至るまできちんと語られないまま、観客を置き去りにしつつ、最後にアレンは父殺しの罰(あるいは罪の償い)の待つ故郷へと帰るところ。とくにテナーに元気に手を振り、テナーもそれに応じて手を振るところが、事の深刻さをずっこけるほどにはぐらかしていて、「父殺し」の重荷に耐え切れず「現実」から思わず目を逸らしているようで味わい深い(と思えた)。

これらの点でこのアニメは実に現代的であり、単館系シネマ的の味わいがあって興味深い。これはル・グウィンというよりは、むしろシェイクスピアの「リア王」のように、身分の高い者が一時の激情に囚われて為した行いの償いをつけて、最後に人間性を回復して滅びるまでの遍歴、しかも自身が未成熟なので自分の作った「現実」の重さを背負いきれていない姿を描いた悲劇なのだ。そういう映画だと思って見れば、最後まで飽きることなく見ることができる。


…というかシンボリックに「父殺し」をやってしまって呆然としている映画だよね。