TAKESANさんのご質問に答える

もどかしさ: Interdisciplinaryのコメント欄において、

あ、ちょっと伺いたいのですが。

「あらきけいすけの研究日誌」の方の、本日付けの文章を拝読しました。
そちらに、専門家からの〜という発言に関する言及がありますね。で、一般論として、納得出来る事ですし、同意出来る部分もあります。
ただ、ちょっと解らないのが、あらきけいすけさんが、(ニセ科学批判者が)どれくらいのレベルの議論を、どの様なかたちで明示すべきか、と考えておられるのだろうか、という所です。

という問いかけを頂いたので、この場で回答をさせていただきます。勝手ながら質問の文章の大半を転載させていただきます。不都合があればご連絡下さい。
たとえば、倫理学の基本的概念を用いて、ニセ科学問題の倫理に関する部分をしっかり説明した纏まった文章が無い、という事なのでしょうか。
はい。そのような文書があって欲しいと思います。だから、ぼくはぼくなりに努力して書いてみました。
ニセ科学問題は、科学的専門的に認められていないにも拘わらず、科学的であると看做される知識、についての議論ですよね。
いいえ。現在の「ニセ科学」の対象は、これに加えて「人を傷つける要素を持つもの」という要素も含めて考えておかねばならないと思います。この要素が判断に加わっていることは、apjさんのブログにおける「温泉はニセ科学か」に対する「ニセ科学には入らないだろう」という結論からわかります。(ひょっとしたらきくちさんは違うとおっしゃるかもしれませんが。)■[2007.9.12]これについてapjさんから丁寧なコメント(下記参照)をいただいた。ありがとうございます。これへのわたしのコメントをapjさんの新エントリの方に書いたので、そちらも参照していただけるとありがたい。自分にとっては「受容者側の問題」にほんのちょっと進展があった■
そういう事情を踏まえると、ニセ科学問題は、文科系科学の問題でもある、というのを言い、文系の専門家に議論に加わって欲しい、と考えるのは、当然でもあると思うのです。科学者のリソースを鑑みても。
はい。これには同意します。
たとえば、ニセ科学を信ずる過程には、社会心理学的メカニズムが関わっているだろうから、心理学系の人達にも議論して欲しい、と発言するのは、別に構いませんよね?
はい。それは個人の発言の自由の問題です(揚げ足取りのような回答ですみません)。
こういう言明は、ある分野に特化した体系的な知識を有した専門家に対する敬意(非専門家が浅薄な議論を行うべきでは無い、という姿勢も)も含んでいると思うのですが、いかがでしょうか。
いいえ。これはボク個人の信条に属することですが、浅薄であろうとも自分の言葉で議論をし、理解をし、自分を鍛えるという心構えなしで、専門家の「御説を拝聴」する方が失礼ではないでしょうか。私は安直な「教えてクン」は先生に嫌われるものと承知しています。
あらきけいすけさんは、「”まず”倫理的問題を考える”べき”である」、とお考えなのでしょうか。
いいえ。しかし「”議論の10回に1回くらいは”倫理的問題を考え”全体を整理しなおしてみようと試みるべき”である」とは考えています。
そしてそれは、ある程度専門的な概念を用いて行わなければならない、という事なのでしょうか。
はい。大学の教養課程で使う程度の教科書に載っている概念くらいは使って考える必要が「議論の発信側」にはあると思います。

ちなみに、私が最も関心を持っているニセ科学は、ゲーム脳ですが、私はゲーム脳に関して、
 ・特定の文化に携わる人々を不当に貶める言説である。
 ・ゲームに、色々な物事の責任を押し付ける事によって、他の重要な要因を見落とす危険性がある。
 ・科学に対して猜疑心を持つ人の科学不信を、益々助長するおそれがある。
 ・育児に従事している人の不安を煽る危険性がある。
等の、様々な問題点があり、ここにも、何度も書いています。たとえば、これらに関しても、倫理学上の概念を用いた説明を心がけるべきだ、という事なのでしょうか。
はい。概念、専門用語を明示的に使うかどうか、説明が上手くいくかどうかは別として、少なくとも「心がけ」はあった方が良いと思います。なぜなら「貶める」「責任」「煽る」と言った言葉遣いで分かるように価値判断を含むものだからです。
いや、その事自体は、私も大切な部分だと思います。問題点がより整理され、議論も進んで行くかも知れません。
でも、やはり、率直に考えるのは、「専門家に何か言って欲しい」、です。これはもう、正直な思いです。
わたしも正直、そう思います。でも、その態度って、例えば「地球温暖化」に関して科学者にハッキリ白黒つけて言って欲しいと言っている市井の人々の普通の態度に似ている部分があるとは思いませんか?(もしお気に障られたら大変、申し訳ありません)
かなり長文になりましたね…すみません。
いえいえ、お構いなく。いまこの質問の文字数を手許のワードでカウントしたら約1200字弱でした。この長さを「長い」と気にかけねばならない「ブログ」というメディアは、息の長い思考をするには不向きなメディアかもしれませんね(笑)。


[9.12 コメントへの応答]
「誤解」があるとのことでした。申し訳ありません。どこが誤解か質問をすべきところではありますが、「誤読」「ちょっと意外」と応答された部分を敢えて敷衍してみます。その理由はボクの先入観がどの辺にあるのかを明らかにできると思ったからです。先入観がわかれば修正も簡単でしょうから。

ボクが自分の日記、およびこのエントリで言いたかったことは「自分は非専門家だからと言い訳して教えてクン状態になっているのではないか」ということです。誤解、偏見かもしれませんが、ここ数日のTAKESANさんやpoohさんのところのコメント欄を見て、そのような印象を持ちました。

今回、ボクは「ニセ科学批判」に対して倫理的側面を強調して書きましたが、「ニセ科学批判」にはもう一つ「科学の啓蒙」の側面もあります。非専門家である科学的知識の受け手の方にも、一定水準の理解力はあって欲しいし、その理解力を養成するためにはどのようなアプローチが必要かについて議論することは「ニセ科学批判」の中身の大きな柱の一つだと理解しています。

さて「自然科学的知識」「その受容者」の関係を、「倫理学的知識」「その受容者」に対応させて考えると、わたしたちは倫理学的知識に関して「受容者」側に立っています。

ニセ科学」のとき、発信者側として「科学とはこのようなものだ」と啓蒙をする際に、わたしたちは受信者側に対して、自分の力で知識を獲得しようとすること、言われたことを単純に鵜呑みにせずに、自分の力で思考の筋道が立てられるようになることを期待してもいます。

翻って「倫理的知識」に関してわたしたちは「理想の受け手」として振舞っているでしょうか。ここ数日の限られた字面だけを追った印象では、そこから一歩ずれた位置にいるようにも思えます。これが「例えば「地球温暖化」に関して科学者にハッキリ白黒つけて言って欲しいと言っている市井の人々の普通の態度に似ている」と感じた背景です。もっと下品な言い方をすると「授業の予習、下調べ無しで倫理学の授業に臨むの?みんな!シラバス無いから分からないって?」

菊池さん、天羽さんはじめみなさんがたは、いままで問題点を列挙し整理しようとして努力なさってきています。そしてそのまとめの恩恵をわたしも受けています。わたしは菊池さんのまとめのページで「水伝」が道徳の問題だと深く認識させられました。

また同様に津村さんにも「科学者の情報発信」議論の際に、社会的にセンシティブな情報になる対象を扱う化学分析の現場の人のセンシティビティにたいする感覚、意見も学びました。(それにわたしは中西準子のウェブページの愛読者でもあります。)

その両者が今回、このような悲惨な「炎上」の両サイドになったことがとても辛い。そしてその悲惨さの原因が「問題点のメタレベルでの整理の不足」にあり、不足の原因が倫理学的知識、語彙の貧困にあるのではないかとわたくしは見ています。

[蛇足]わたしは津村さんの「問題の重要度感」に関する発言がきっかけになって、自然科学者の議論とは思えないほど見苦しい議論が展開したことを知っています。それでも敢えて言いたい「関心の持ちようは人それぞれではないのか?なぜ早い段階で(「環境ホルモン」が念頭にあるといった時点で)オトナの対応に切り替えられなかったのか?」と。文科系の問題群はモデルとなる事例の立て方によって、議論がいくらでも水掛け論になってしまいます。(それは経済系の議論を見ればわかる。)

ぼくは8月24日に既に前提条件の極端な違いに気が付いていたのに、「環境ホルモンをアタマにおいて、ニセ科学を見るな!誤解している。議論がネジれる。思考モデルを取り替えてはじめから考え直してくれ!津村さん!」と言わなかった。

その後悔の念が日頃はウォッチャーどまりのわたしが敢えて挑戦的にエントリを上げた動機です。