「ニセ科学批判批判」批判のための覚書
まずはじめに「はてぶ」界隈(はてなブックマーク - 科学という一神教 - hasenkaの漂流記)でごく一部の人々から熱狂的なネガコメをもらった科学という一神教 - hasenkaの漂流記を見てみると、このエントリの趣旨は
みんな寛容になろうよ。世の中にはいろんな人、いろんな考え方があっていいじゃない。科学者の態度は偏狭だよ。と言いたいのであろうと思われる。
「寛容」「共存」という徳目を説くという視点からすれば、「良いことを言っている」ようにも見えるエントリである。はてなスターもいっぱい付いている。でも本当にそうか?*1
hasenkaさんが、たとえば「振り込め詐欺」をする人々の報道を見て、「みんな振り込め詐欺にも寛容になろうよ。世の中にはいろんな人、いろんな考え方があっていいじゃない」と言う人であれば、ボクの批判は届かないだろう。
「寛容」「共存」と言ったって限度というものがあるんじゃないかと思う。僕らはその限度というものがどの辺くらいかを、日常的な感覚で判断している。でもその日常的な感覚の基礎はある程度、言語化して意識をしておいた方が、「なんとなく」って曖昧な感覚のまま放置するよりはいいかもしれない。
「寛容」「共存」の基礎としては「他人に迷惑をかけなければ、何をしてもいい」という自由主義の基本の考えがある。もちろんこれは昔の王様のような時の権力による圧政なんかによる自由の束縛に対して、「みんな自由で平等だ、王様なんかに縛られないぞ」というキモチから出ているのであって、「なんでもやっていい」という話じゃない。
もちろん今は王様がむちゃくちゃやれる憲法なしの封建国家なんて(建前上は)ない。でもニュースなんか見るといろんな対立とかあって、何とか互いに迷惑かけずに共存できないものかなんてキモチにさせられることも多い。やっぱり自由主義の基本の考え方は知っておいたほうがいいんじゃないか。
じゃあどんな条件があれば「なんでもやっていい」のだろうか?
個人の行動のレベルの話なのだけど、「何をやってもいい」という言い方の背後には一応、つぎの五つの条件があることになっている:
- 判断能力のある大人なら、
- 自分の生命、身体、財産にかんして、
- 他人に危害を及ぼさない限り、
- たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
- 自己決定の権限をもつ。
「ニセ科学批判」というのは、実はむかしから(っていつよ!)あった。ツッコミのかかる対象は、「血液型」のような科学のフリをするものから、「占星術」のようなオカルト、果ては「アポロは月に…」みたいな陰謀論までいろいろある。
ボクも以前は「そう目くじら立てんと、放置プレイで…」なんて考えていたのだが、たとえば菊池さんのこのページ、天羽さんのこのページを見て「これは大変なことかもしれん」って思ったわけだ。これを読んだときに例えば
うわー。あらきのハンカチでコップをくるんだら、汚い結晶ができちまったぜ。あらきってワルいやつなんだー。みたいなイジメだって可能だって思った。これはひどい。そりゃ「ウソも方便」なんて言い方もあるけど限度があると思う。
だからボクは最近の「ニセ科学批判」活動を、単純に「科学的にマチガイ」ってだけではなくて、「ひとを傷つけるから良くないもの」、さっきの5原則から言えば3番目の「他人に危害を及ぼさない限り」を踏みにじるものを批判していると考えている。(これはボク自身の独自の解釈に過ぎないのだけれど。)
だからはてぶのネガコメの中でbunoumさんの
食品業界では偽装食品を排除しようとする力が働く。どうして並存を認めようとしないのか。共存してもいいじゃないか。ダンボールが肉まんに使われようと中国産のウナギが国産として売られようといいじゃないか。http://b.hatena.ne.jp/bunoum/20070802#bookmark-5415601が一番、ボクのツボを突いたのだ。うまい!
さて次は疑似科学批判が流行る理由 : 社会学玄論というエントリを見よう。
社会学的な概念が散りばめられた立派な文章だ。ボクのようなアタマの悪い人間にはなかなか理解できそうにないので、がんばってやさしい言葉で書き換えてみた:
疑似科学批判が流行る理由は、明らかである。これはこのように言い換えられるのであろうか?
社会学的に言うと、現代社会のイデオロギーとして科学が機能しているからである。つまり、科学という言葉だけで人々は思考を媒介とせずにそれが真理であると信じるわけである。このような知識社会学的な社会状況を背景に、科学のイデオロギー効果を利用して人々を騙すのが疑似科学である。それは、虎の威を借りた虚偽知識である。アカデミックな本当の科学の立場からこのような虚偽知識を批判するのが、疑似科学批判をする論客たちなのである。
大雑把に言えば、現代の社会では科学は「権威を持って無批判に受け入れられる知識」なのだ。つまり「これは科学的」と言いさえすれば、みーんな何も考えんと鵜呑みにしちゃうのだ。ふざけていると思われるかもしれないが、学的な術語の魔力を脱神話化するには、ほぼ同じ意味であろうと推定される下卑た言葉に書き換えるのが早道だ。このような知識社会学的な社会状況を背景にだから、みなが鵜呑みにしちゃうことをいいことに人を騙すこまったちゃんが疑似科学なのだ。つまり「カガク的」なんてもったいぶったフリしたウソってこと。ちゃんと大学で科学をベンキョーしてる立場から、このウソにイチャモンをつけるのが疑似科学批判をする人たちなのね。
しかし、科学を絶対視する点においては、疑似科学もそれを批判する者も同じ観察点にいる。この盲点に自覚的な論客は少ない。多くの疑似科学批判論者は、疑似科学批判の背景には、科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理があることを理解していない。言い換えれば、自己の理論の前提に盲目なのである。学問的には、このままでは、目くそ鼻くそを笑う域をでない。これは次の意味だと受け取った(ふざけた表現を用いて済みません):
でもさ、科学が「とーってもエライもんだ」と考える点では、疑似科学もイチャモン言うひとたちも一緒だよね!でもこれに気づいているブロガーってあんまりいないよね。イチャモンつけている人はたいてい、科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてるって社会学的真理があるってワカッテなーい!もっと言っちゃうとさ、自分のコトわかってないよねー。学問的には、どっちもどっちだよ!ツッコミの入れどころは沢山あると思うが、一つだけ取り上げよう。
「科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能している」という文があり、これをわたしは「科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてる」という意味に受け取った。
そして「科学が成熟社会=後期近代社会のイデオロギーとして機能しているという社会学的真理」が、次の文の「自己の理論の前提」と同じものであると受け取った。(なぜならこの二つの文の述語が「理解していない」「盲目である」であり、この二つの文が「言い換えると」で接続されているからだ。)
ここで冷静に考えてみよう。
「自己の理論の前提に盲目」と書かれているが、これはロジックを追って読み返すと、
科学が今の世の中で絶対的権威をもって受け入れられてることに、科学者は気づいていないという意味になると思われる。しかし考えてみよう、ニセ科学批判者は、ニセ科学の持つ「科学的なそぶり」の権威的な効果をハッキリ自覚している、つまりニセ科学蔓延の背景として「現在の社会には科学が一種の権威として盲目的に受け入れられる素地があること」を意識している。そうであるからこそ「まちがった知識を権威として受け入れてはいけない」と批判をしているのである。
だから「自己の理論の前提に盲目なのである」というのは、社会学的分析としては明らかに事実と異なっている。そして残念なことにこの「批判者が前提に盲目であること」が全体の結論のようである。
たぶん「ニセ科学批判者には社会学的素養がない」という趣旨の批判をしたいのであろうが、たとえ「最初に結論ありき」にしたって、ここまで議論のロジックがおかしいのでは「目くそ鼻くそを笑う域をでない」。社会学、科学哲学以前の小論文のおはなしである。*2
…そして、僕はこの辺で力尽きて、他のページを見る気力が失せてしまったのだ。
*1:ここではhasenkaさんが定義のハッキリしない曖昧な言葉で議論していることには触れない。とくに「一神教」「宗教」という単語の使い方を見ると、思い込みが激しく、イイカゲンな使い方をしている。(信仰の篤い人々に失礼だと思った。)これについては突っ込み講座 - 泣き言メイン(琴子のセンス・オブ・ワンダーな日々)できちんと批判されている。
*2:コメント欄に「こういう書き方は、私の師匠から学び取りました。その方を誰か当てて欲しいです。」と書いてあるが、こんな議論の詰めの甘いヘリクツも言えない学生を卒業させたの一体、だれよ!