「ニセ科学批判」批判のための覚書

以下は覚書、あるいは感想文である。(現在のわたしがそれと気づかずに)事実誤認に基づいて議論を組んだ部分もあるかもしれない。
■[2007.9.9追記] もどかしさ: Interdisciplinary のコメント欄で、このエントリに言及しつつの議論がある。■

津村さん(の多分この記事)が震源地になった一連のやり取りが(この記事のあたりで)非常に非建設的な形で収束しかかっているように思われる。

いわゆる「ニセ科学」への対抗活動の基本は、いわゆる「ニセ科学」が「科学的にまちがっていること」が問題なのではなく、「科学のふりをして人を(精神的、肉体的、経済的に)傷つけること」が問題とされているはずである。これは「他者を傷つけてはならない」という「他者危害原則」に則った、きわめて高い倫理的規範に基づいた行動になっている。

この倫理的規範に則って行動していることは、ニセ科学批判の対象として「学校の授業」「製品開発、販売」の場面の例が上がり、物理学会での「トンでも発表」が槍玉に上がらないことからわかる。つまり「こどもに倫理的規範を教育する際にウソを根拠にしてはならない」「虚偽の効用、動作原理を元に、商品を販売して、消費者を経済的に傷つけてはならない」という倫理規範が働いている。
 [蛇足]だから「反重力」の学会発表程度では目くじらを立てることはないであろうが、「反重力を応用した省エネルギーシステム製品」といった形で現れたら、ニセ科学批判の対象になるであろう。

ところが菊池さん天羽さんの日頃の言論、活動では、この倫理的規範がその根底にあることが明示的にあまりなっていないように思われるし、賛同者にせよ批判者にせよ、この規範について反省的に考察を加えているものが少ないように思われる(…のはボクが寡聞だからですか、そうですか)。だからこの問題に関しては、日本の「文系(文系的素養)」は文系の名に値しないほど貧困である(…というのは、寡聞な人が言ってはいけないことですね。すみません。)
 [蛇足]「科学的に間違っている」からだけで批判しているわけではない、批判しているものには必ず「人を傷つける」要素があるということが十分に伝わっていないから、「ニセ科学批判」が「科学という信念に基づいた「正しさ」を押し付ける教条主義的態度」という受け取られ方をされているのではないか。

さて津村さんが「ニセ科学」関連で最も気にかけておられた例は「環境ホルモン」であった。これは菊池さん天羽さんのニセ科学批判とは明らかに毛色の違うトピックである。
 両者の違いは、津村さんの例は「科学的に正しい手続きに基づいて得られた、正しいけれども(いくつかの現実的な問題に対処するには)不完全な知識」であり、菊池さん天羽さんの例は「科学的に正しい手続きを踏んで得られたものではない、いい加減な知識」あるいは「科学的であるとウソをつく」タイプのものであることだ。

津村さんの出した「環境ホルモン」の例では「公的な発表そのものが、多くの人々の経済的活動に負の影響を与えかねない」という点で他者危害原則にひっかかってくる。(少なくとも当初、津村さんはそこを非常に気にしておられた。)菊池さん天羽さんの例は「ウソをついて人を傷つけるな」とくくれるが、津村さんの例は

ウソはつかないけれども、「正直に言う」ことが人を傷つける可能性があるときに、「正直に言う」ことは許されるか(「何も言わない」ことと比較して考量するときに何を基準に考えればよいか)
という倫理的に異質な、菊池さん天羽さんの例とは比較にならないくらい高レベルの難しい問いかけを含んでいる。
 つまり「水伝」「水商売」の例は他者危害原則に照らした判断が容易だが、「環境ホルモン」は判断が容易ではない。そしてこの論点に関して、議論に参加されたみなさんは両者の論点の差異を比較検討するというよりは、これまでの自らの態度を整理・説明する態度に終始しているように思われた。この議論の進み方は「ニセ科学」のおかれた社会的文脈を、より広い観点から反省的に考察する機会をみすみす潰す結果になったと思う。

特に科学的情報の受容者側の問題、例えば受容者の科学リテラシ、ならびに多様で雑多な判断を強いられる日常生活での判断に対するコストの問題などをほとんど議論できていないように思われる。そこらのおっちゃん、おばちゃんにどこまでの判断を要求しなくてはいけないのかという問題を議論できていない。

倫理的規範が背後に強く働いているにもかかわらず、そのことについて反省的な考察がなされず、倫理的な判断の基準が「常識的な線」という曖昧なものに留まったままであること、そして議論の文脈を見ていってもその方向への議論の発展が期待できないこと。これが現在の「ニセ科学批判」の活動の「文系の視点から見た」問題点ではないか。
 「人を傷つけるな」:それは当たり前のことである。「傷つけないために何を為す/為さぬべきか(その根拠は何か、何と対比的に考えられるか)」についての考察が足りないのである。

[2007.9.8 追記]「他者危害原則」

直接の形における強制、あるいは、応じない場合に苦痛や刑罰を加えるという形での強制は、彼ら自身のためになる手段としてはもはや許容されず、ただ他人の安全保障のためにのみ、正当と認められる(ミル『自由論』、加藤尚武『現代倫理学入門』p.174より孫引き)
本来は「他者に危害を加えないなら、何をやっても自由」という自由主義の前提となる原則の名称として使う単語なので、この本文での用法は誤用に近いかもしれない。「ニセ科学を唱えるのは、たとえ自由主義を原則とする社会であっても、自由にやって良いことではない」というつもりで使っている。

[2007.9.9 追記 コメントへの応答]
ふまさま

個人の活動であるなら、それは発言者の勝手とも言えると思う訳ですが、
これは「曲解」すると「個人の活動なら他者に危害を加えるのも自由」とも読めます(曲解でごめんなさい、でもそういう誤読もあり得ると思います)。それはありえない。ただ事例研究としては「こどもに予防注射をする」のような「こどもに針を刺す」危害より「こどもを病気から守る」という利益があるように、損益の比較考量を個別の事例ごとに丁寧に分析する必要があるとは思います。
 それに津村さんのむかし(少なくとも2004年の「専門家の情報発信」議論)からの関心のひとつに「個人の立場で情報を発信しているつもりでも、職業、地位の性質上公的性格を帯びてしまう可能性にどのように対処していくべきか」というものがあります。とくに氏の扱う対象が化学物質の安全情報につながるものなので、そこへの関心が強く出ていると思います。「個人」と「公的組織」の分離はそう簡単な問題ではないと思います。(わたしはこの「分離」に対する意見がまとまってません。)

apjさま。津村さんが「環境ホルモン」をモデルケースとして考えていることが出た時点で、誰かが論点のねじれ、「水商売」と「環境ホルモン」の対象の性質の相違について指摘するべきだったと思います。「環境ホルモンに言及しない」ということには、津村さんがいつまでも心のどこかに「環境ホルモン」をモデルとして考える状態を残す、という弊害があったと思います。

「良エントリー『に対する反響」さま(「社会学玄論」のコメント欄に「良エントリー」名書き込みされた方ですか?)。他にもこのエントリへの反響が見つかりましたらご紹介ください。

問題点さま。

・「汚い言葉を避けて、きれいな言葉を使いましょう」という主張は、二分法的で道徳的に良くない。
という部分は、(科学的思考と相容れないから)「自分達が気に入らない」
という話ではなく、「ユニラテラルな態度はよくない」という一般道徳だと思います。これに関しては道徳的視点を強調して書くことを試みた「水からの伝言」はいじめである - あらきけいすけの雑記帳の中で言及しました。

[2007.9.13 追記]上記コメントへの応答以降に、コメントに応答できてなくてすみません。