「卵」とは誰か

村上春樹エルサレム賞受賞記念講演を読んだ。http://www.haaretz.com/hasen/spages/1064909.html, 村上春樹: 常に卵の側に
ボク(あらき)には次のように聞こえた。


彼の講演を単純にあてはめると「爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁」だが「爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾」を操作する人達、操作する人達に指示を出す人達も、ひとりひとりが本来「卵」であるはずだ。そして「卵」である以上、「卵」の側に立つ「わたし(村上)」としては彼らのひとりひとりも「ひとりひとりの個人として」は私(村上)は支持しなくてはならない(というか実際に支持している)し、そうなるとどっちが「善」でどっちが「悪」かなんて判断のしようが無いし、そもそもそんな基準があるのだろうか?
とにかく「私は卵の側に立つ」としか言い様がない。「卵」と「壁」を単純に「パレスチナ人」と「イスラエル」のように単純に捉えて欲しくない。「卵」は「卵」なんだ。
そしてそうであるはずなのに、なぜ「卵たち」が「壁」の一部と化してしまい、「卵」を押し潰してしまう「システム(The System)」と化してしまうのかについて想像を巡らせて欲しい。そして「私(村上)」が "The System" とわざと "The Book" のように定冠詞付きで大文字書きをして(しかもしゃべっている場所は他ならぬエルサレムだ)、その「超越性」を暗示していることを汲み取って欲しい。

…そんな風にボクには読めた。そしてこれはボクの個人的な読みなので一般性はないだろう。
そしてかつて日記にこう書いたことを思い出した。

沖縄には「平和の礎」という沖縄戦の犠牲者の 〈ひとりひとりのなまえ〉 を民間人、軍人、敵、味方を問わず 全て記した石碑がある。 この石碑は「20世紀へのカウンターパンチ」だと僕は思う。 というのも、 「ひとりひとりの名前を記すこと」によって、 (20世紀の特徴のひとつである) 「大衆社会」とその中に埋没した個々人の「匿名性」への、 抵抗になっているからである。http://ud037.are.ous.ac.jp/d200209.htm#911
また「敵/味方」「被害者/加害者」「軍属/民間」 という区別を全くせずに同列に扱うことによって、 戦争がこれらのひとびとをころした、 戦争は「ひとごろし」であることをはっきりさせている、 と僕は感じた。 「正義」「大義」というコトバが欺瞞に過ぎず、 怨嗟の連鎖を止める力が無いことを、 礎はだまってアピールしている。http://ud037.are.ous.ac.jp/d200209.htm#912


…そして、こうも思った:村上さま、「システム」は本当に「定冠詞」や「大文字」なものなのでしょうか?