「正論原理主義」とはこれのことか?あるいは卵の善意から「壁」が出来上がるまで

しばらく前に村上春樹氏が「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」と文芸春秋のインタヴューで語ったことが話題になっていた。ボク自身も本屋でこれを立ち読みしたり、ネット上の言説を見たりしていた。

これはボクの個人的な理解に過ぎないのだが、まず村上氏は作家である。作家は個別の人物、事例を丁寧に見ていき、丁寧に描き上げる。たとえば「恋愛」なら恋愛をする人々それぞれの、「失恋」なら喪失の中にいる人々それぞれの、「殺人事件」なら殺人者の殺人にいたるまでのプロセスを丁寧に考え描き上げる。当然それは作家の「つくりばなし」に過ぎないから、同じ題材で、いかようにも物語をつむぎ上げることができる。その中から唯一つの文章を紡ぎ出し、それ以外の「つくりばなし」をシャットアウトして、作品を作り出す。その中に描かれた個別の物語はなにものにも代えがたい一回性のものである。

その一回性、個別性、ささやかな個人のささやかな物語を大切にする人から見れば、反論することが難しい「正論」を前面に押し立てて、その人のささやかかつ日常の個別の事情を斟酌することなく、次から次へと批判の言辞が積み重ねられていくウェブ上の「正論原理主義」に、1960年代末から1970年代初頭の熱狂とそのエスカレートそして蹉跌の中で氏が経験した事項と同じにおいを感じているのかもしれない(私は当時生まれてはいたが、幼かったのでこれを「歴史」としてしか知らない)。氏はまずこの60年代末の熱狂で「壁」に押し潰される「卵」を目の当たりにしたのだろう(もちろん氏は氏の父の背中にもそれを見ていたはずだ)。

そしていま、わたしはその「壁」が、国家とか経済とかそういう社会制度ではなく、自発的に意見を述べ、コメントをつけることができるブログとその周辺の空間で立ち上がっていくプロセスを目の当たりにしているのかもしれない:
2009-03-25
はてなブックマーク - 愚挙を称える暴挙 - 新小児科医のつぶやき

まず自分の状況をはっきりさせておくと、わたしは医療の専門外の人間であり、今回の事例に関して妊婦の行為が「愚行」か否かについての判断を保留している。それは(少なくともわたしにとっては)判断に足るだけの情報が出ていないからである。

Yosyan 先生の日頃のエントリをそれなりに拝見していて、先生は事実を丹念に掘り起こしながら問題を考える方だと理解しているし(たとえば直近では2009年3月28日の36協定の話など)、コメントを残される方もそういう態度の方が多いと理解している。日頃、そういうエントリを拝見していると、少なくとも当該のエントリは一方的な推定が多く、Yosyan 先生にしてはエントリのレベルが低いのではないかと感じた(主観的ですみません)。もちろん、そのレベル低下の原因は「体調不良」であろうということは3月22日のエントリから推測される。

わたしは Yosyan 先生にはやや同情的であるが、当該エントリのコメント欄やはてなブックマークのコメントを見ると、総体として、妊婦を愚行と批判し、医師に対し「強制されたのでは」と身勝手に同情するものが多いと感じる。これらは最初に Yosyan 先生が提示した「わら人形(事実に基づかず、自分勝手な想像で作り上げられた相手のイメージ)」を引きずったものである。果たして本当にそうか?

これに対してわたしは「妊婦が完走した」「医師と相談していた」という報道を基にして、「基礎体力があり、かつ妊娠中も日頃のトレーニングは結構やっていたのではないか、産婦人科医もそれを知った上でアドバイスを与えていたのではないか」という別の「わら人形」を過日のエントリで提案したのである。どちらがより実情に近い「わら人形」であるかは、追加の情報が出ない限り明らかではないと考えている。*1

わたしは「一般的な妊婦にとってマラソンが過酷だ」ということは正しいと思う。また「医師の立場からすれば、クライアントの望みを無碍に否定するわけにもいかないという状況に追い詰められることが(多分、よく)ある」「なかには医療にとって妨げになるようなことを求められることもある」ということは、お医者さまのブログをこれまでもいくつか拝見して推察できる。いずれも反論が難しい正論である。

しかし、その「正論」を前面に押し立てて、「事実」への吟味をないがしろにしてよいのか?*2

わたしの先のエントリに den と名乗る氏から次のようなコメントがついた。

本人を知っていようが知っていまいが、誰が考えても危険なことは明らかです。
わたしは記事の事実からは「危険の大きさ」は判断できないと考えている。その理由は妊婦の基礎体力が評価できないからである。
 そして den 氏の「誰が考えても」にわたしは入らないし、この表現は「詭弁のガイドライン」(詭弁のガイドラインとは - はてなキーワード)中の「主観で決め付ける」「資料を示さず持論が支持されていると思わせる」の典型例になっている。
AEDのお世話になる選手が出るくらい過酷なマラソンへのGOサイン
これは「ガイドライン中」の「ごくまれな反例をとりあげる」という項目の例として挙げられるかもしれない。ここでは松村氏が出場資格「6時間半完走」を本当に満たしていたかを吟味すべきではないのか?吟味すべき点が違うと言う意味では「一見、関係がありそうで関係のない話を始める」に該当するかもしれないし、「過酷」という部分はマラソンに参加する人(しない人)の個人差を無視すると言う点で「レッテル貼りをする」に該当しているだろう。
フルマラソンというのは一回のレースで数Kg単位で体重が現状(ママ)するほど、
これは記録、上位入賞等を狙うトップアスリートのランニングに対するものなのか、時速9kmにも満たないジョギングペースのランニングでも同様に該当するのか?資料が全く示されていない。これも「資料を示さず持論が支持されていると思わせる」に相当する。
 以上、「事実」「資料」が無いので、あなたの意見から新しい知識は一つも学べなかった。

den氏へ:わたしはあなたのコメントが妊婦の健康に対する真摯な態度から出ていると信じている。しかし、あなたのその「誠意」が、あなたの発言に(おそらく無意識のうちに)詭弁という冷静な議論の最悪の「敵」を呼び込み、岡田綾乃さん*3に対する「モンスターペイシェント」像を勝手に膨らましている。わたしはもう少し判断に足るだけの情報が欲しいと思っているし、現状では「モンスターとは限らない(彼女にとって妊娠中の日常の延長上のできごとかもしれない)」としか判断できない。

村上春樹氏の「壁と卵」の話がウェブ上の話題になったとき、わたしも凡庸な意見をこのブログに残した。わたしは氏の講演を「なぜ「卵たち」が「壁」の一部と化してしまい、「卵」を押し潰してしまう「システム(The System)」と化してしまうのかについて想像を巡らせて欲しい」という呼びかけとして受け取った。そして想像力の貧困なわたしは、今ようやく想像を少し巡らすことができた:

壁を構成する一つ一つのレンガは、一つ一つの「脊髄反射ブコメのようにささやかだ。そして批判をするときは「それを良くしたい」「悪いことを止めたい」というささやか善意が必ず存在する(とボクは信じている)。
 しかし、それがある一定数以上のマスを形成したときに、なにか事実と違うイメージが一人歩きを始め、容易に打ち壊すことのできない「壁」になる。
 そして、わたしはわたし自身(あるいはわたしのブコメ)が壁を構成するレンガのうちの一つに化けるのが怖い。
多分、「レンガと化す恐怖」はブコメに限らないんじゃないか。「壁」を生み出すメカニズムはボクら自身の内部にもあって、共感し易い「正論」という衣を纏っているのかもしれない。

*1:少なくとも妊婦と医師の間のリスクコントロールに関する情報は「3年目でようやく出場権を得て、医師と相談して「無理をしない」という条件でスタートした。」しか出ていない。またランニングのペースとしては「ゆっくりのジョギングを貫き、6時間13分の“長旅”だった」という情報も記事内にある。

*2:もちろん冷静な方々は、例えば、妊婦が運動をするための条件についての学会のガイドラインなど、判断の基礎となる情報をコメントとして残されております。

*3:写真で見ると松村氏とは反対で、健康でスマートそうな方ですよね。