この部分は理科教育に限らない

左巻先生のブログより引用(ここが本エントリの主、あとは蛇足):

(1)何でもいえる雰囲気をつくる
学校には、正答主義という、おかしな考えがいきわたっているような気がしてならない。
正答主義とは、正しくないと答えとして認めず、まちがいをバカにする考え方だ。ハイッ、ハイッといきおいよく手があがるが、さされた子どもがまちがうと周囲から笑いがおこり、まちがいをいった子どもは下を向く・・・なんて光景がよくみられるのである。
日頃から「教室はまちがえるところ」「間違えながら大きくなっていく」ということを言い、まちがいの発言に対しても、教師は、具体的に、その考えのするどさを見い出してほめたり、条件が違えば、そのまちがいが正しくなることや昔のエライ学者の名をあげて同じまちがいだと説明してやったりして、正答主義におかされている子どもたちに「間違いのすすめ」をしよう。たとえば、「結果として間違いだったけれど、Aさんがその考えをいってくれたので、みんなは、問題をずっとよく考えたよね。みんなの頭のなかにもAさんと同じ考えもあったんじやないかな。それをはっきりいってくれたAさんてエライね」などと。
このことと関連して、少数意見を大切にし、ある意見をバカにするような笑いや言葉にはきびしく対応し、ひとそれぞれの精一杯の意見をしっかり聞くようにさせる。まわりにうまく伝わらない意見は、その意見を読みとった子どもに助け舟を出させて、代わって説明してもらう。いちいち教師が要約して解説してやると(時には必要なこともあるが)、子どもの発言をしっかり聞かなくなる。
子どもの認識にゆさぶりをかける授業を(20余年前に書いた小論) - samakikakuの今日もワハハ SAMA企画
この話を読んだとき、ボクはふと前野さんの「これが二等辺三角形でないことぐらい、見たらわかるでしょ!」をなぜだか思い出してしまった。いろんな意見を受容して、その「内部合理性」や「文脈」を咀嚼するのは、先生にとってもなかなかに難しいものだ。
(以下、内省モード)
ボクも「おろかな質問をわらわない」ことを自らに課している(http://ud037.are.ous.ac.jp/d200703.htm#318)。わらわずにいることは簡単だ。「知らないから」訊いているという事実に誠実に向き合うこと。あるいは、その人の思考にとって「合理的な」推論の結果のはずだから、その「内部合理性」を理解したいと願うこと。そうすれば笑うことよりも、思考の可能性があるかもという期待の方が先に立つ(目の前に世界を広げてくれる「先生」がいるかもしれないのだ)。そしてこの姿勢は日記に書き留めないと忘れそうになるし、ときどきそれを読み返して再入力しないとアタマが硬くなりそうになる:
質問はその人にとって「わからないこと」の領域にある。そして教えるべき事、答えるべき事は、その人にとって「わかっていること」と「わかっていないこと」の境目にある。その境目を把握しようとせずに、質問に答えを与えるのは愚かな行為である。その境目を正確に探り当てることは、教師の義務であり、その境目を一歩ずつ押し広げることが、教師の仕事である。http://ud037.are.ous.ac.jp/d200703.htm#318
ちょっとキツい書き方だが
学生の教育をしていて、 学生の誤った概念を訂正するというプロセスを経験すると 「〈バカ〉には〈バカ〉なりの合理性がある」ということに気が付く。 〈バカ〉と括弧書きしたのは人格、性格、基礎能力の問題ではなく、 彼らが行なっている誤った推論の運用過程を指し示したいからだ。 推論の運用に際して「誤ったデータ」「誤った推論規則」、 さらには「誤った世界モデル(問題の外部、環境との整合性)」があって、 しかも本人は「自己の内部モデル」の「環境」との不整合に気が付いていない。 粗っぽく言うと

  「内部モデル」は無謬であると脳は前提する

という感じだ。 これは学生を観察した結果でもあるが、 対象を学生に限らなくても大学内で簡単に観察できるようにも思われる。http://ud037.are.ous.ac.jp/d200605.htm#501
少なくとも数学やら物理やらの程度なら「正しい」ことは、人生やら社会やらに比べれば、思考の筋道付きで簡単に手に入る。