ボクが違和感を覚えた理由

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20090420-00000301-president-bus_all
に対して私はブクマで「「オウム」のくだりに違和感を覚える。ニセ科学サリンは作れないからだ(なぜ誰も指摘しない?)。短い紙幅なので戦略的に書かねばならないという背景は分かるがミスリーディングだと思う。 」とコメントを記した。
このくだりは菊池氏が氏自身のヒストリーを語った部分であり、その部分にツッコミを入れるのも大人気ない話だが

科学を捨てて宗教をやるならまだわかるが、オウムのなかでニセ科学を行うことに、私は衝撃を受けた。(ibid.)
この直前の文で“科学技術庁長官”村井秀夫に言及しているので、村井のような理系出身のカルト信者の存在への衝撃を語っていることはわかる。でもこの文章の条件文「科学を捨てて宗教をやるならまだわかるが」ときたら、普通、帰結は「オウムのなかで ニセ 科学を行うことに、私は衝撃を受けた(科学は捨てなかったよね)」となるんではないか?なんか読んだときに(筆者にその意図は全くなくとも)無理に「ニセ科学」にコジツケたいのかという印象を持ってしまった。
そもそもオウムを「ニセ科学」から論じるのはかなり無理があるように思える。まずオウムは、空中浮遊のような「ニセ科学」を用いて信者を獲得した側面もあれば、獲得した信者からの強制的な多額の「喜捨」で得られた経済力を背景にして、サリン製造プラントという科学・技術を正確に応用した施設も作っていた。特に社会の衝撃を与えたのは、ボクの理解では、「カルト」と「科学・技術の正確な使いこなし」の結合がテロという形で表に出てきたことである。「こんな結合、あり得ない!」というわけだ(僕の理解に過ぎないけど)。
だから個人のヒストリーの吐露とは言え、一面的に思え、違和感を覚えるのだ。
[蛇足]ニセ科学だけなら、テロ的な実害は出しようがなかったかもしれない(もちろん信徒に喜捨させる部分は害としてあるのだが)。
[追記] TAKESAN が指摘してくれたのだが http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1174403052#CID1240710304 に記事はインタヴューの要約であるとある。寄稿ではないので、その分を割り引いて考える必要があるようだ。