近似する

大学に入りたての頃は近似するということがどういうことか分かっていなかった。
近似をするということは、正確な答えを出さないということだから、そんな不純なものを数学に持ち込んで良いのかと思った。…てゆーか、教科書に載っているテイラー展開とかは、三角関数とかの素性の知れた関数ばかりだったから、「近似をしないと正体が見通せない」関数の存在というものに思い至らなかったのである。
本格的に近似の意味を捉えかかったのは大学院生の時で、流体の方程式の摂動展開をシコシコと計算しだしてからである。最初のうちは、先輩に「近似って摂動項の大きさがどの程度までなら妥当なのですか?」と訊いていたのだが、割り切った答えをもらったことがなかった。非常にもやもやとしていた。
そのうちに大事なことに気が付いた、このモヤモヤ感が大事だと。結局「近似というのは、結果がそこそこあっていればいいのだ」「結果オーライな範囲が近似が妥当な範囲だ」と気が付いた。そしてそこから肝心なことに気が付いた「結果オーライかどうかを判断することは、研究のセンスを問われる一番大切なところなのだ。数式の数学的式変形の中に妥当性への答えは無い。数式とその解と現象との対応でチェックがかかる。ここでトンチンカンをやってはいけない。」
というわけで近似をすることの意義が少し分かり始めたのであった。そのときに必要な予備知識のひとつがテイラー展開の(とりわけ剰余項の)形とその意味であった。誤差のコントロールがキモなのだと。
応用に関する「未知との格闘」の側面の噺をせずに数学的式変形の範囲内で話を閉じると、テイラー展開を考える意義って伝わりにくいなと思う。