「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ

「自然科学が自然の近似」と言いたくなるキモチはボクもよく知っている。研究をすることで「自然」についての知識が少しだけ増えて、研究成果を発表することでそれが共有財となり、自然に対するビジョンがちょっとだけ広がる。それはきっと自然の「本当の姿」にちょっとだけ近づいているに違いない。

元を辿れば、多分(明示的に書いてないけど)、apjさんのエントリhttp://www.cml-office.org/archive/1226948122175.htmlに対して、哲学的な議論が好きな(多分ね)quine10 さんがエントリ科学について(あるいは真理について) - quine10の日記を上げて、そのブコメはてなブックマーク - 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記に ublftbo さん(TAKESANさんと書く方が通りがいいかも)が書いたコメントにボクが噛み付いたことを受けている。

まずはロジカルあるいはセマンティカルに

「自然科学(の理論)が自然の近似」という言い方は、英語に翻訳すると、多分 "Sciences approximate nature." くらいの SVO 構文で表されるかなー(自信ない…というかこんな英文あり?)となると思う。で、意味的に "sciences" と "nature" の関係がどうなっているのか取りにくい。

"approximate" に力点を置いて解釈すると、"sciences" と "nature" とを比較可能にする「尺度」のようなものが背後にあって、その尺度を前提としたときにこれら二者の「距離」のようなものが「次第に小さくなる」というイメージになろうかと思う。(このへんは、例えば pollyanna さんのコメントと機を一にする。)この解釈のスジで行くと「距離」が「ゼロ」という部分も理論の背景としてなくてはならないだろう。比喩的に言うと、関数y=1/xはx→+∞の極限でゼロに漸近するというとき、数直線にはゼロそのものがないとステートメントが表現できないようなものだ。(このへん、かもひろやすさんにツッコまれるかな?)

ではその「距離がゼロ」のケースを考えよう、つまり "Sciences" is "nature" という場合だ。これはちょっと変。「理論」が「対象」と同じ?極論をすれば「電子の運動方程式」は「実際の電子の運動」ってこと?科学が万が一完成すれば、科学理論が自然そのものってこと?

そんな揚げ足取るなよ(ブコメはmax100文字だぜ)という外野の声が聞こえてきそうだが、実際 TAKESAN さんの表現はそういう揚げ足を取ることが容易な多義的なステートメントになっていると思う。科学哲学者はもう少し言い方が慎重だ。ボクは哲学が専門ではないから説得力がないので、虎の威を借りよう:

スタンダードな科学的実在論の基本的主張は、現在成熟した科学で受け入れられている科学理論は近似的に真である(approximately true) ということだとされている。
伊勢田, 『疑似科学と科学の哲学』, p.123 (名古屋大学出版会, 2003, 下線部はあらき)
という風に慎重に主語と述語を選定して記述し、曖昧さを回避しようとしている。これなら「100%正しい理論じゃないけど、うまく行っているんだよね」という含意をきちんと表現できている(と少なくともあらきは思った)。もちろん揚げ足を100%取られないような言い方は無理であり、意味の明瞭さには広大なグレーゾーンが存在するけれど、科学をメタレベルから論じるときには語の用い方にもう少し慎重さがあっていい。「科学の理論(の正しさ)」と「科学の対象」が下手に混ざっているので、ボクはダーク・グレーであると考えた。

これが「杜撰だ」と言った第一の理由。もし「科学は自然を近似的に記述する」と書かれていたら、このセクションは無かったかもしれない。

「自然」って何?

ここで取り上げたいことは「自然」という語の多義性だ。自然っていう語は多義的だから、「科学は自然の近似」と言ったとしても、何を指差しているのか、何が言いたいのか分けが分からなくなるよね。たから「杜撰」と言ったんだ…というツッコミを入れてもいいんだけど、それでは実りが無いので少しだけ議論を進めたい。(TAKESANさんにツッコミを入れた当初はその程度だったけど、考えれば考えるほど問題が多いと思ったんだ。)

まず極論をすると「その考え方は自然だね」みたいな言い方をしたりとか、敵は「自然」 - 地下生活者の手遊び, http://kousyoublog.jp/?eid=2210で取り上げられているような「自然」もある。一体「自然」ってこの場合、何よ?

意味を拡張するのはやりすぎだ、文脈から考えて(ここでは quine10 さんのエントリ科学について(あるいは真理について) - quine10の日記程度まで遡るだけで)「自然科学の対象としての自然」というのは自明ではないか、という外野の声が聞こえそうである。もちろんわざとやっている目的がある:議論の前提条件を掘り起こすためだ。うん、そうだよね自然科学の対象としての「自然」だよね。

でも自然科学に近そうな部分を考えても「自然」は多義的で、野や山や鳥や気象、天文をイメージするような(日本語だと「天然」って言い方に近い)「自然」があるけれど、その一方で、合成化学の進歩で、天然には産出、合成されないような人工の化合物もあるわけで、これも立派に「自然科学」の対象だ。例えば食品添加物か何かの話で「天然由来のものがいい、化学物質はよくない」って主張に「いや、全部『化学物質』なんすけど…」って嘲笑を浴びせた経験ってない?

いま挙げた化学物質の例は「マテリアルだ」ということで捉えることができるだろう。じゃあ動物や植物の「種」はどうなんだろう?これも立派な生物学の対象だ。リンネ(だったっけ?)が考えたような「自然な分類」みたいなものが本当に「ある」のだろうか?それともそんな「静的」な分類なんかなくて、もっと動的なものなのか。(この辺はボクもちゃんとした知識がない。『系統樹思考の世界』を読んだ程度。)「天然」のものが対象だけど、ストレートにマテリアルなものじゃない、どちらかというと「差異のシステム」と表現したくなるような、言語における「意味」みたい(だけどそれよりは多分よりリアル)なものもある。

自然科学の「自然」という語は定義、あるいはカバーする範囲を真面目に考えると意外に手ごわい相手だとボクは思う。

ボクは議論を曖昧にしたくないために、自然科学的な「自然」の特徴は何かを考えようとしているのだが、ここで議論の出発点となったステートメント「科学は自然を近似する(科学は自然を近似的に記述する)」という表現に戻って、ゆっくりと考えてみよう。この文章では「(近似された)自然」とは「科学が記述した対象」のことだよね。つまり論理的には科学的に扱ったものだけがここでの「自然」。

え?それって変、というか論理的にエラー。この文の範囲内でも「自然」の語は「科学が記述した対象」よりは広い範囲の対象を指しているはずだ。

でも、何でもかんでもここでの「自然」の中に入れるわけにはいかない。例えば「水は言葉の良し悪しを理解する」なんてのは、「アニミズムの対象としての自然」ならばありかもしれないが、「自然科学の対象としての自然」としてはあり得ない。かならずどこかに「境界」があるはずだ。もちろんその境界は明確な線が引けるものではなく広大なグレーゾーンとして広がっているだろう。

そのときにその境界線の位置を探るきっかけはどこにあるのだろう。結局、自然科学というものがどういう特徴を持っているかについて論じる必要があると思う。

例えば「自然科学の知識は必ず何らかの「経験的テスト」を通じて確かめられる」(だから「水商売」はテストを構成し、実施すると全部落第するので「ニセ科学」だ)とか、「自然科学の知識は要素間の整合性で特徴付けられる」(だから「水が言葉を理解する」という事実は整合性の網の目の中に位置づけることが不可能なので「ニセ科学」だ)といった議論をして、グレーゾーンの「方向」と「広がり」みたいなものを考える必要があるんじゃないかな。これについてはボクのような哲学の素人がゴチャゴチャいうより、みんなで伊勢田『疑似科学と科学の哲学』を読んで、議論を深めるほうがいいと思う。

要約すると、この文をきちんと取り上げて、その「自然」の語義を確定しようとするならば、「科学」の特徴づけを考察しておく必要がある。

そんなことを言うと「自然の近似」も特徴の一つじゃないか、と言うかもしれない(実際 TAKESAN さんは繰り返しそう言う)。しかし、この特徴づけは一体、どのような応用が利くというのだろうか?

結局、この表現からは「自然科学って自然科学で扱える自然を扱っているよね」という事実確認しかできない。ここから科学の理論的な特徴を抽出することはできない。例えば「科学」を「ニセ科学」から区別する基準はこのステートメントからダイレクトには導けない。(だからapjさんのエントリhttp://www.cml-office.org/archive/1226948122175.htmlの議論は議論の進め方が非常に危ういとボクは考えている。助かっている理由は、ニセ科学批判批判側がバカばっかりなので、駁論を上手に組めないせいだとボクは思っている。)

だからボクは「間違っている」とは言わない。むしろ日常の感覚としては「正しい」。でも理解を深める役に立つとはとうてい思えないし、このステートメントのままでは応用も利かない。「ニセ科学」と戦う武器にならないのだ。これが「杜撰だ」と言った第二の理由。(apjさんの議論の中にも TAKESAN さんの議論の中にも「経験的テスト」「理論全体の整合性」のような科学の特徴がいくつも記述されている。そこまで議論していて、議論のまとめ、論文だったら title または abstract に相当するものが「科学は自然の近似」なの?)

ぼくが TAKESAN さんにツッコんだ理由は、これが「ニセ科学」説明しようとした apj さんのエントリに、自分なりの哲学的意見をまとめようとした quine10 さんの議論に対する TAKESAN さんのブコメとして書かれていたからこそだ。つまり文脈からして「科学とは何か」という考察の中にあるから、「科学は自然の近似」なんて言っても次に繋がる実りがないよと言いたかったんだ。

不愉快なコメント、あるいは「ニセ科学批判」が派閥のように受け止められる理由について

TAKESAN さんのブログのコメントが「ニセ科学批判」に対して、それと気づかずに自分で自分の首を絞めていると思われるので指摘したい。一番、分かり易い例を引こう:

私は科学哲学の人が現状の科学の営み及び認識について、批判的な言及をする際に、常にひとつの間違いをおかしているように感じたりします。
それは、「真理」を前提に置くことです。
科学は「真理」ではなく、「観測事実」の近似をしているのが実態だと思います。あくまでその結果として、多くの人が「真理」と感じるものに近付いていくということのはずです。
極端な話、科学が近似するものが「真理」である必要はゼロだともいえると思います。
また、更に極端な話をすれば、「観測事実」が実在する外界を反映するものではなく、たんなる人間の認識世界でしかなくとも構わないといえるのではないでしょうか。
投稿: lets_skeptic | 2009年4月24日 (金) 09:30
「科学は自然の近似」: Interdisciplinary(改行コード、空白文字は適宜改変)

私は「ニセ科学批判」の人が現状の科学哲学の営み及び認識について、批判的な言及をする際に、常にひとつの間違いをおかしているように感じたりします。

それは、「ニセ科学批判」の人が「ニセ科学批判批判」の意見に対して反論をするときには、「どの「ニセ科学」に対する意見を、どのような論点から批判しているのか」についてきちんと明示的に議論することを厳格に要求しているのに、自分達が「哲学」に関する批判的な意見を表明するときには「どの「科学哲学」に対する意見を、どのような論点から批判しているのか」についててきとーに書き飛ばしていることです。

lets_skeptic さんに問いたい:「真理」を前提に置いているのは(1)誰のどの学説なのか?(2)その学説のどの部分がどのように問題なのか?この程度のコメントでは十分に合理的な説明になっていないので説明して欲しい…って問い返されても仕方ないよね。(この件、回答は不要です。)

言い換えよう、「ニセ科学批判批判のみなさん、ニセ科学批判について勉強してから批判してね(ぼくたちこれまでずーっと真面目に議論してきたんだぜ、それを踏まえてよ)」と言っているそばから、「哲学者のみなさん、ぼくらは科学哲学について勉強しないけど、批判はするね(だって哲学ってさあ、小難しい議論ばっかりして、分けわかんないだもん)」と言っているんじゃないのかい?

この「他人に厳しく、身内に甘い」態度が正当だって理由を教えてくれないかな?

コメント欄のこのコメントの後の意見を見たが、ボクの見た時点(きくちさんの投稿+1)で TAKESAN(18), ちがやまる(2), pooh(1), lets_skeptic(1), oanus(8), 技術開発者(1), かもひろやす(4), トンデモブラウ(1), zorori(5), apj(3), 白のカピバラ(1), YJS(1), きくち(1) の方々が意見を述べているが、誰一人としてこの非対称な態度をたしなめようとしていない。

こういうコメント欄を見せ付けられたら、「派閥だ」って誤解されてもしかたないんじゃない?

ボクだって学者の端くれだから、科学で論文を通すときの議論の厳しさをそれなりに知っているつもりだ。科学は、科学者の一人一人が「いい加減な知識を世に送り出してはいけない」というモチベーションを持ち、それに見合った分だけの厳しいデータチェック、ロジックチェックがかかる。これは「科学のQC活動」って呼んでもいいかもしれない。その厳しいQCの現場を知っている身からすると、現在の「ニセ科学」批判はこんな簡単なレベルのところでQC甘いんじゃないの?(QCの甘い製品を信用できる?)

今回はかなり批判を遣り易い形で(たまたま lets_skeptic さんの)意見が出てきたんだけど、こんなことの積み重ねが「悪い印象」を与えてきたかもってことは、真剣に再検討してもいいんじゃないかな。

最後に quine10 さんの議論を「古臭い」と言ったわけ

科学理論に対して、真理の対応説と真理の整合説の対立みたいな観点から整理しようとしてもうまくいかないことがある。例えば惑星の運動だ。すんげえ大雑把だが天体の軌道を説明するのに三つの説がある:


  1. プトレマイオスの天動説+周転円;

  2. コペルニクスの地動説+周転円*1

  3. ケプラーの地動説+楕円軌道。
これらのいずれも、おそらく当時の観測精度の範囲内でかなり正確に天体の運動を記述できていたはず。つまり「自然」と「その記述」の対応としては地上からの天体の運行の軌道のみを見る限りこの三つのいずれも「(近似的にうまく)対応している」と言っていい。しかし、他の現象の記述との整合性、ニュートンの力学というシンプルな理論との親和性を考えると、天体の運動ならば、楕円軌道を出発点にしてデータを整理して次の科学的探求をした方が実りが多い。(まあ周転円も「楕円軌道のフーリェ展開」と考えて位置づけることもできるかもしれないが。)

ここで言いたかったことは「素朴実在論」による「対応説」をとったとしても、実際の科学の理論、ここでは「天体の運動の記述」と「説明のための理論体系」を見たときには、理論内部の整合性、他の現象の記述との整合性が理論選択の鍵になっている。つまり「対応説」「整合説」の両方の視点が「科学」を見るときには必要になっている。多分、このへんは科学論としては「常識」なのではないだろうかとボクは思う。


追記:2009.5.7

apjさま、コメントありがとうございます。それからエントリ「何か微妙に違う気がするので」も拝見しました。
ニセ科学の判定問題については、ボクは自然科学の「科学らしさ」についてもう少し一般向けにやさしく解説する試みのようなものがあっていいのではと考えています。多分、説明の「背景知」として線引き問題に関するある程度の知識が説明する側にあってしかるべきではと考えています。
apjさんのご意見は尊重しますし、学説への深入りはボクもしたくはありませんが、避けすぎると傍から見て議論が珍妙になりかねないとも思っています。


追記:2009.5.20

apjさま。レスポンスがとても遅くなってすみません。はてなはコメント欄にリンクが書けないので、コメントの主要部分をここに再掲させていただきます。

まず、私が捉えている問題の構造ですが、
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/ps-introduction
のようなものです。多分、この切り分けをうまくやらないと、続く議論も混乱すると思います。
 ありがちな間違いについては、
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/nisekagaku-teigi
の最後の方に書きました。
 科学らしさをもう少し使いやすい形で(一般的にやさしく、じゃないんですけど)呈示するなら、
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/guideline-tentative
のようになるかな、と思います。意味を説明するんじゃなくて、手続きから入るという書き方をしています。科学の特徴として、客観性があるとか、実験で再現できるとか、いろんなものを挙げることができるそうですよね。ただ、そういうものが列挙されたとして、「目の前にあるこの話をどう扱うのか?」となった場合、科学の専門家としての訓練無しに処理するための手順書が必要だろうと思うんですよ。それで、景表法運用ガイドラインの「合理的な根拠」の判定方法に沿った形でまとめてみることにしました。元々が、科学の専門家ではない人達が取り扱うことを前提にして作られているので、こちらの方が、科学らしさを全面に出すよりは実用的かな、と思っています。
 社会規範についての議論は、別途立てました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/lab/pseudoscience/ps-comments/nisekagakumondai