カントが自然科学の基本的態度を裁判官のメタファーで語った部分の抜書き

ニセ科学批判」批判、あるいは科学コミュニケーションに関するあれこれを自分なりに整理し考えるための覚書。
ずいぶん前に話題になった 科学者とのコミュニケーションが痛いわけ - L&S とその記事のはてぶを見て思ったのだが、「自然科学」を「裁判」との表面的な対比で語ると、メタ水準で類似性が多く見出されてしまうので、相違点を強調する役には立たない。自然科学の「裁判」的な特徴付けに関して、相対論や量子力学の成立・受容以後の現代科学とそれをモデルにした現代の科学論が出てくるよりもずーっと以前に、自然科学をカントが(メモ書き的、比喩的ではあるが)メタ水準で概念分析したステートメントが『純粋理性批判』の第2版の序にあるので紹介しよう:

理性はただそれに合致する諸現象だけが法則と見なされうるような、自分自身の原理を一方の手にもち、自分がその原理にしたがって工夫した実験を他方の手にもって、自然に向かわねばならない。それはもちろん自然から教えられるためではあるが、しかし教師の欲するとおりを何でもいわされる生徒の資格においてではなく、証人をして自分が彼らに提出する質問に強要する、正式の裁判官たる資格においてである。
カント, 『純粋理性批判』, 第2版 (1787), 序, p.XIII, 高峯訳, 河出書房新社, 1989, ISBN 4-309-24111-5
ここでは「ただそれに合致する諸現象だけが法則と見なされうるような、自分自身の原理」ということで、対象そのものではなく、それをとらえる概念とその概念を操作する主体(人間)の理性が自然科学の対象となりえる「もの」の範囲を規定してしまうという、後のパラダイム*1と共通するとらえ方の萌芽が見られる。その文脈の中で「裁判官」のメタファーは「教師(自然)のいいなり(現象のそのままの受容)になる生徒(人間)」との対比で「証人(自然)に質問(実験)への回答を強要する裁判官(人間)」として描かれている。ここで支配・被支配的な関係を表すメタファーが「裁判官と証人」であり、「教師と生徒」「主人と奴隷」のような他のメタファーではないことは、「裁判」というシステムの持つ手続的な要素、すなわち証明(論証、実証)の要素を暗黙のうちに重要視しており、近代の自然科学*2の特徴のメタ分析でこの二者間にアナロジーを見出しているためではないかと思う。
というわけで、「自然科学」と「裁判」は昔から似たもの同士という指摘があるくらいなので、表層的な比較を持ち出すと自然科学側から「そんなもんこっちにもあるわい」なんて水掛け論を呼んでしまうことになる。
…で、以上のような「文系的」な指摘が「理系」の側*3からささっと出ないことが、現在の「理系」のカルチャーの問題点ではないかと思う。たぶん「ニセ科学批判」が好きな人々からは「そんなことは哲学の専門家がちゃんと…」みたいなことを言って逃げるんじゃないかと思うけど。
で、最初に挙げたエントリとそのはてぶコメントのちぐはぐさの原因は「手続き」「評価」といった日常語かつエントリ内での無定義語の意味が、筆者と読者でとらえる文脈がちがっていることにあると思うのだが、これについては別の機会にまとめたいなあ。

*1:おおざっぱにはパラダイム論とは、概念の枠組みが違うと対象の理解の仕方も変わってしまうから(例えば量子力学とそれ以前の物理を考えよう)、「概念の枠組み」って何だろうということをきちんと考えないと、科学の正しい理解はできないよという立場。カントは「枠組みを作る人間の能力ってスゴくね?」ということで、概念の枠組みを作る人間の能力を分析したら全学問の客観的な基礎ができるんじゃねと考えて、その分析に取り組んだ…とボクは理解している。

*2:カントが『純粋理性批判』第2版の序で挙げた自然科学の例はガリレイトリチェリ、シュタール、コペルニクスニュートンのもの。

*3:なぜ「理系」の側なんだって?それは、より科学にコミットし、より科学とは何かを熟知した者が、科学のメタ分析にはふさわしいと考えているから。