このひとは本当に「頭が良い」のか?

ここには頭のいい人が成功できるかどうかの境目に対する批判的な長文エントリをあげていましたが、(やはり批判的な)感想を一つだけ残して、取り下げます。

20歳を過ぎた人が、他者との比較、他者との相対的な位置の比較の中でしか、自分自身の姿を規定できないというのは見ていて痛々しい。これは頭の良し悪しあるいは学歴、学校歴の問題ではなく、アイデンティティの確立の問題である。
氏の社会人としての健闘を祈念します。


[追記]ここは私の意見、感想を書く、私の管理するスペースです。取り下げた理由はここには書けないプライベートな事情によります。ここに書いていた批判は大筋で間違ってはいなかったと思います。


[これをお読みになった大学院生の方へ]
私は京都大学理学部を卒業し、京都大学大学院理学研究科で修士と博士の学位を取得しました。また流体力学をテーマに博士課程の論文指導をしたこともあります。もちろん卒業論文の指導を毎年やっています。その狭い経験の中から、この増田の文章を読んで、気になった点をあげます。研究とはノイローゼとの戦いでもあるので、参考になればと思います。


まずこの人は「脳内他者」が多すぎます。自分の能力を評価するために仮想的な他者を作成しています。ひょっとすると「いや、これは観察に基づいたものだ」という反論もあるかもしれません。
そこで彼らは平気で先輩や教官に頼った。
授業料を払っているのだから、「教えてもらって当然」ぐらいの貪欲さでちょうどいいのだ。
しかし、本当に彼らがただの「教えて君」だったのでしょうか?おそらく、きちんと話し合って確かめたことはなく、研究室でのやりとりの表面的かつ断片的な観察しかしていないでしょう。私がこう断言する理由はただ一つです:私の狭い経験の範囲内でしかありませんが、大学院時代の同輩、同僚(これは京大には限りません)に安直な「教えて君」は一人としていなかったからです。みな、自分のアイディアを整理した上で議論、あるいは整理するために議論をしていました。そこにはこの人のような「安直に答えを求める」態度はなく、「自分の視野を広げるための参考意見」を求める態度しかありませんでした。答えはあくまで自分で出すものだと考えていました。
この人は実在しない脳内「彼ら」を措定し、その彼らが「頼った」「教えてもらって当然」と書いた時点で、自分自身が「教えて君」そのものだということを疑ってかかった方がいいでしょう。院生のみなさんも「他人が悪く見えた」ときは、自分が自分のネガティブな側面を「他者」に投影していることを疑われるべきでしょう。これはユング心理学で「影のアニマ」と呼ばれる現象です。
そして、ここには一つの教訓があります。成果がなかなか出ずに気が弱くなったときに、結構あっさりと「脳内他者」が立ち上がることがあることです。ノイローゼ気味になったときに、一番、頼りになるのは自分の脳内での「自分の判断」ではなく、自分の出力、たとえば膨大な量の研究ノート(愚痴、ボツアイディアが累々と書かれたもの)のような「外在的」なものです。「ドラゴン桜」に似たような話ありませんでしたっけ?


しかし、その努力が私の場合はことごとくピントはずれだった。意味のない努力で時間と労力を浪費した。
自己評価が「極端な値」にぶれるのも、院生にとって警戒しないといけない落とし穴です。「成果」が出なくて焦っているときは、気が弱くなってヤケを起こしやすいものです。
もしこれが実験装置を用いた研究に対する自己評価ならば、このような極端な評価もあり得るかもしれません。例えば時間のかかる生物系の実験などで条件の統制に失敗したというような。(私自身はいわゆる「実験系」「フィールド系」ではないので、これについては判らない部分があります。)
しかし、もしこれが「勉強・研究の仕方、方向性」に対するものならば、「ことごとく」「意味のない」といった極端な自己評価を下した時点で、「自分は(日頃はそうではないかもしれないが、今は)無能」、例えば「疲れて能力が落ちている」ことを疑った方が良いでしょう。
修士から上の研究における勉強のプロセスには「100%の無駄」はまずありえません。試行錯誤を繰り返し「道に迷う」経験は「知識の地図を作る」経験に他なりません。試行錯誤の一つ一つが豊かな「地図」の源になります。その過程の中で、自分がそれまでに手に入れた知識の再編成も生じます。例えば「同じ量子力学の式が違って見える」としか言いようのない経験です。
逆に「正解に一直線に進む道」をたどったとしたら、それは未知に耐える経験をしない不幸な状態と言えるでしょう。(先の見えないしんどさに耐えることは、実は広い世界への通路だったりします。)
この文面を読んで推測できる限りでは、修士論文のまとめで指導を受けたステップで、自分の考えていた見通しと異なる見通しを指導者から見せられて、初めて自分のこれまでの軌道の全体の中での位置づけを獲得している。
そしてこの文書の範囲内におけるこの人の問題点は、この人の見通しが悪かったことにはなく---研究の初心者は見通しが悪いのが当然---この人が指導者の見通しをかなり素直に受け入れてしまっていて、そこから逆に自分の努力の過程を全否定している点にあります。ここに欠けているものは、「プライドに邪魔されて素直になれなかったこと(あるいはシャイであったこと)」ではなく、「自分と自分の努力の過程、そして指導者の指導内容に対し、客観的でクリティカルな評価の軸を持てていないこと」なのです。
例えて言うと、自分の研究の過程が100%の「黒」だったり、先生の指導によるまとめ方が100%の「白」だったりすることはなく、これらはすべて幅広い「グレーゾーン」のどこかにあり、一歩一歩「白に近いグレー」に近づけていこうとすることが大切です。自分がどの程度の「グレー」なのかを冷静に評価しようと努めねばなりません。
そしてその自己の「グレー度」を評価するためには、自己を第三者の視点で見ることが必要です。簡単な方法の一つは第三者に状況を説明し意見を聞くことでしょう。それは答えを教えてもらうことではありません、自分をより多くの視点から見つめ直すことです。「答えをもらうこと」と「多くの意見の中から自分の状態を把握すること」は全く違うのです。*1


(かきかけ)
一方で彼らには失うものがなかった。もはや不勉強は隠しようもなく、そこで開き直ってやるしかない。
(かきかけ)


またこの増田で気になることは「教師・学生」のような「上下」の関係に関する記述が多く、「対等の立場での議論」というモデルが全く現れないことです。同僚、先輩、先生との対等な立場での議論という話が全くありません。


(この項は書きかけです。これからもチマチマと書き足します)


[結論]研究を成し遂げられるかどうかは、今までに自分自身が何を入力し、何を出力したかを適切に評価できるかどうかにかかっています。研究とは精神的には「自分」と「世界」との知的な接点を求める作業であり、そこに「他人がどうしたこうした」「だれそれは有能だ無能だ」という視点が入り込むことはあり得ません。自分はこれだけの「出力」をしたという事実の積み重ねがあるばかりです。

*1:この「極端な自己評価」に関する部分は、2007.3.23に書き溜めたものをアップした。