あなたは、毎日死ぬことばかり考えているそうだけれど、ちゃんと生きている

http://anond.hatelabo.jp/20090414194624
死なないで欲しい。最近、とある国公立の大学院に行っていた、ぼくの知り合いの親族が赤腹で自殺した。残された家族の苦悶をボクは傍らで見ていた。「残されたものの苦しみ」が再生産されないことを私は切に願う。
もし万が一「研究の行き詰まり」が赤腹のものならば、自分を責めるより、冷静に状況を評価できる「周囲の人々」に苦しみを打ち明けるべきかもしれない。打ち明ける相手は「心の問題」を理解している医者がよいかもしれない。
もし万が一「研究の行き詰まり」が純粋に学的なものならば、「暫定的な成果での妥協」「ギブアップの宣言」のような肩の荷を一時的に軽くする手段をとることも学問上の「選択肢」と考え得るとは思う。研究とはささやかな知識を得るものであって、自分を追い詰める道具ではない。
理性、論理的思考が感情、あるいは倫理観、あるいはヒステリーのような「自分ではそれと明示的に意識できない何か」の奴隷になっているように見受けられる。以下の文章は精神科医風野春樹さんのかつての日記の引用である。これが今のあなたの助けになるかどうかは分からない。でも「医者に行くべきだ」という忠告の一部は、ひょっとしたら自分の深刻なノイローゼの克服の経験から来ているかもしれないと、想像していただけると有難い。

 自殺の話。
 ドクター・キリコの事件については、インターネットを一方的に悪者扱いするマスコミの論説も陳腐だけど、それを批判したり笑い者にしたりするネットにありがちな意見もかなり陳腐化してしまっているので、あえてここで再生産することもないでしょう。私の意見は後者に近い、とひとこと言っておくだけで充分。
 ただ、ネットの中では、自殺をするのはその人の自由だから止める必要はない、という極端な個人主義的意見の人をけっこう見かけるのだけれど、精神科医の立場からするとこれには賛成できない。知り合いに限らず、誰かが自殺をしようとしていたら、私はとりあえず止めるだろう。
 別に自殺すること自体が悪だ、などと根拠のないことを言うつもりはない。自殺は善でも悪でもなく、一種の「権利」だと私は思っている。ただし、権利を行使できるのは、正常な思考ができ、自分に責任を持てる大人に限る。
 先の個人主義的意見の人たちが忘れているのは「人間はときとして正常な思考ができなくなることがある」ということ(ついでにいっておくと、個人の自主性だとか人間の理性とかを重んじるという姿勢は、そういったものを持ちたくても持てない人々を排除するということにもなりかねないのだ)。「自殺したがる人」の中には、精神的に明らかに正常ではない人が相当数含まれているように思うのですね。それに、たとえ大人であっても、一過性に正常に思考できなくなってしまう人はけっこういる。そして、一見しただけでは精神的に健康かどうかはわからない。ゆえに、正常かどうか判断できないうちは、とりあえず「ちょっと待て」と自殺を止めておくべきだろう。
 精神科領域には、精神分裂病うつ病境界例など自殺に至る可能性のある疾患は数多い。中でもうつ病は、薬を飲みさえすれば高い確率で改善する病気だ。精神科の治療では、うつ病の患者さんにはまず「あなたの落ち込みは病気によるものです。これは必ず治る病気だから絶対に自殺はしないように」と告げるのが鉄則である。治療すれば治るはずの患者さんが自殺で死んでしまったときには、治療する側としてはやりきれないような気持ちになる。
 「自殺したがるような人間はそれだけで精神的に正常ではないのだ」という人もいるだろうが、私はそのような説は採らない。もし、本当に精神的に正常であり、考えた上の結論として死を選ぶというのなら、私は止めない(例えば、三島由紀夫を止めようとは思わないし)……つもりでいるのだけれど、実際知り合いが自殺しようとしていたら止めるだろうな、やっぱり。それは、私はその人がいないと寂しいし、第一後味が悪いから、という利己的な理由によるのかもしれないけど。
http://psychodoc.eek.jp/abare/diary9812c.html#28
ぼくは自殺願望を友人の一言のおかげで回避できたこともある。「たましいが今、苦しみを欲しているのですよ」というものだった。身体が腹が減ったら食物を欲するように、たましいが何かのはずみで苦しみを欲することがある。この一言おかげでボクは状況を accept できた。(体験談に過ぎないので一般性は多分ない。ごめん。)