ニセ科学的な記事、あるいは波についての少々の覚書

Teragaki-Labo、「認識されていなかった音波を出す」スピーカー
記事に曰く

独自の「物質波(波動)理論」を取り入れているのが特徴。
この辺がアヤシサ大爆発。記事を書いた記者がワカッテないのか、スピーカーの作者がイカレテいるのかこの記事からは分からない。
ただ、そんな理論なんか関係なく、このスピーカーがいい音を出すスピーカーだという可能性はある。聴く耳を持った人が聴いて、300万円出しても惜しくないなら良いスピーカー。私にはその辺のオーディオ機器の「良し悪し」は分からない。
まあそれ以前の話として素人考えを述べると、スピーカーの形状は複雑なので、音の伝わり方の「物質波理論」云々以前の話として、通常の理論的な枠組みの中でもスピーカーの形状をきちんとモデル化した方程式を解いて、さらに周囲にどのような音を撒き散らすのかを分析するのはむずかしい。この記事の問題はスピーカーという「複雑な形状の固体の組み合わさった機構の運動」の問題をあたかも「空気の運動」の問題ように書いているところにある。
記事にはツッコミどころが満載で
音は、空気中を疎密波(縦波)で伝搬する。しかし、「深夜に聞こえる時計のゼンマイの音」など、小さな音が離れていても聞こえる経験から、寺垣氏はそれ以外にも「隣り合う分子が音のエネルギーを伝えることで、音が伝わるのではないか?」と仮定。その振動を物質波(波動)と名付け、それを再生できるスピーカーの研究/開発を約30年かけて行なってきたという。
まず「隣り合う分子」って何?気体って激しく運動しているんですけど。固体なら「隣り合う分子」があるけどね。それから「深夜に…」って空気中を伝わるゼンマイの音も縦波ですよ。

縦波、横波とは…まずは形式的に

そこでまず「縦波」「横波」が何かをまとめよう

定義:縦波とは波の進行方向と波を伝えるモノの変形の方向が同じものであり、横波とは進行方向と変形の方向が食い違っているもの。(「モノ」と書いた理由は電磁波も考えているから。それから波が伝わるモノにムラ(不均一)があると、波がどう伝わるかの話はややこしくなる。)
縦波は波の進行方向とモノの変形の方向が同じなので、モノの変形としては「伸びたり、縮んだり」という変形になる。だから縦波は疎密波とも言う。ここで問題になっている音はその代表例。
これに対して横波の代表例は光である。光は電場と磁場がウネウネと強くなったり弱くなったりする振動が伝わっている。その電場、磁場の向きと光の進む向きが直交しているのだ。ここでなぜ「光」なんだという話になる?海の波か何かのような分かり易い身近な例は無いのかという話しだ。

脱線。じゃあ海の波はどっち?

実は今の話は「1種類のマテリアルの内部」をウネウネとした変形が伝わる話なのだ。瀬戸内海の穏やかな波は「海水(液体)」と「大気(気体)」の境目にできるうねりなので、いま説明した単純な縦波、横波の説明の話に乗らない部分がある。方程式を解くときに境界面に関する事項…たとえば表面張力とか…を考慮に入れないといけない。これはいまの「音の理論」の想定するような「空気(1種類のマテリアル)」の話ではない。

縦波、横波とは…もう少し物理的に

実は流体(液体や気体)には「横波」はあり得ないのだ。あり得ないことを理解するカギは「復元力」にある。波は基本的には振動現象だから、なんらかの意味でバネのような「外部からの力のかかった向きに逆らう内部の力」があるはずだ。
縦波の場合には、物質に対して「押し縮める/引き伸ばす」向きの力がかかる。この力の特徴は物質の体積を変えようとすることだ。流体の場合には、この向きの力に対して流体の圧力が復元力になる。
横波の場合には、物質に対して「歪める(斜めに変形する)」向きの力がかかる。これは体積は変えずに形を変える。ここで流体の場合には歪める変形に対して「復元力」が存在しない。「水は方円の器に従う」という格言は「水は歪める変形に対しては逆らうことをしないで、容器の形にフィットするまで変形する」ということを言っているのだ。

脱線。ほんとに復元力は無いの?

流体の密度が一定ではなく、たとえば「底の方になるほど重い(密度成層ができている)」ときには、流体を持ち上げようとすると重力に引き戻される力がかかるから、復元力が存在するし、その力に応じた波が発生する。けれどそれは自然界では海や大気のようなおおらかな大きさの話で、今回の「音の理論」が想定するような室内の環境では密度一様なのでそんな波は出ない。

縦波、横波とは…今度は数学的に

流体にかかった「歪める」力は、復元力がかからないので波にはならず、渦運動のようなクルクルと回る運動になってしまう。数学的には流体の基礎方程式をHelmholtz分解(Hodge分解)したときに、圧縮性成分の部分が音波を記述する方程式に、回転性成分の部分が渦運動を記述する方程式になる。tsugo-tsugoさんのエントリhttp://d.hatena.ne.jp/tsugo-tsugo/20090121にあらわれる「Helmholtz方程式」は圧縮性成分の部分を見たときの方程式で、渦運動の部分は「音源項」として扱われることになる(はず)。
さて流体の運動の末路なのだが、ぼくらが普通に聞いている「音」は振動のスピードが速いので断熱的なプロセスであり、わりと減衰しにくい圧縮性成分の運動である。これに対して回転性の成分である「渦」の部分は、粘性とよばれる変形に対する内部摩擦力ですばやく減衰してしまう。流体(液体でも気体でも)中を伝わる波の基本の一つに

流体中では横波(というか渦)は縦波よりも圧倒的に早く減衰する
という事実がある。
具体的な例を挙げると、空高く飛んでいる旅客機が起こしている流体の運動を考えると、すさまじい勢いのジェット、重力に逆らってあれだけの重量物を浮かすための下向きの流れ(翼にとっての揚力は周囲の流体にしてみれば下向き流れの強制)、そして轟音。これらの流体の運動の中で地上に届いているものは縦波である轟音のみである。
他には地球を伝わる地震波がある。地震波には早く伝わるP波(primary=最初の,これは縦波)とS波(secondary=2番目の,これは横波)があるのだが、これらの全地球的な伝わり方を調べると「地球の中には固体ではなくて液体があると仮定しないと地震波の伝わり方が説明できない」部分がある。この液体の層は「外殻」と呼ばれており、ここの流体の運動が地球の磁場を作り出しているんじゃないかって話は盛んに調べられている。

「従来には認識されていなかった音波」って何よ?

というわけで、この記事にある「音」が、空気のような「流体の振動」を表しているならば、この話はたーーーーっぷりと眉に唾を付けて読むほうが良い。もし「慶應義塾大学の武藤佳恭教授」が空気の振動に対して「横波の音波」と言っているとしたら、学者としての良識を疑う。
しかし気をつけて記事を読んでみよう。振動しているマテリアルがもう一つある、スピーカーだ。これは固体なので「歪める」力に対しても復元力を持つので「横波の音波」という考え方が成り立つ部分もある。縦波と横波 - Wikipedia
s41123324さんのエントリhttp://d.hatena.ne.jp/s41123324/20090121では「固体伝播音の話ではないか」という趣旨のことが書かれている。(この辺については、ボクは知識がない。)そう思って記事を読み直すと

通常のコーンユニットなどを使わず、独自開発した湾曲パネルを搭載
とある。これは音源となる振動する固体部分の形状の話だ。それに
「パネル全体が振動すると、前の音の振動が慣性の法則で残り、後の音の立ち上がりがぼやけるというピストン運動のダイナミックスピーカーの構造的宿命」(寺垣氏)を避けるため、パネルは極力動かさないように作られており、
とあるが、これは固体で質量を持つ振動子の部分が、入力信号に対してどのように応答するのかの話である。つまり正確さを期すなら、ここはこう書くべきだ
「パネル全体が振動すると、前の音によるパネルの振動が慣性の法則で残り、後の音を再現すべきパネルの振動の立ち上がりがぼやけるというパネルのピストン運動のダイナミックスピーカーの構造的宿命」(寺垣氏)を避けるため、パネルは極力動かさないように作られており、
そしてこれは制御工学でいうシステムの「追従性」の話なので、工学的に研究する価値があるかもしれない。

結論

というわけで、記事の言う

独自の「物質波(波動)理論」
が空気の振動の話であるならば、これは十中八九「ニセ科学」であり、この記事の問題はスピーカーという「複雑な形状の固体の組み合わさった機構の運動」の問題をあたかも「空気の運動」の問題ように書いているところにある。

追記[2009.3.13]

液体中でも極めて短い間ならば横波が観測されるそうである:液体中を横波が伝わる??? - あらきけいすけの雑記帳