カエル化するニッポンのダイガク…(100文字越えたのでここに)

博士号取得者のみを大学教員とする方針についての見方 - 発声練習
いわゆる「民間」からの採用に関して、これだけのコンテクストでは、ボクは何も言えない。ただ教員採用を議論するときにボクが忘れたくないことは、学生にどういう教育を施したいか、どういう知識と技能を、どういうトレーニングの下に教育したいのかという前提をはっきりさせるべきだということ。人事採用はそのポリシーに従って考慮すればいい。
ただ大学には人事部のような系統的に人を品定めする専門的システムがない。その代わり教授会が peer review によって「仲間を選定する」システムになっている。これはこれで高度に専門的な知識集団を維持するための採用システムとしては良いシステムになっているのではないかと思う。この採用システムは多分、世界でも共通であろう。
ではなぜ日本の場合に、このシステムが学位取得者偏重に傾くきらいがあるのかというと、おそらく採用側にポリシーを明確に言語化し、ポリシーに合わせて相手を評価するという主体的判断の能力が低いから、言い換えると、教養が無いので「より高く、広い視点」から反省的に自己の教育システムに必要なものを考えることができないからではないかと見ている(これは仮説)。もっと悪口を言うと「博士持ち」というタグでしか判断できないから。
とくに「教養がない」ので、「外からの風」を自分のカルチャーの中に位置づけて考える能力が低い、したがって「外からの風」を自分の中になかなか取り込めないという背景があると思う。この部分が同じ peer review システムを採用していながら、新しい研究分野が次々に教育システムとして立ち上がるアメリカなんか(←これわら人形かも)と違う部分なのではないか。もっと悪口を言うと「蛸壺の外」に興味関心がないから*1
peer review による採用システムは高度に専門的な場合、多分、良いシステムだ。でも「中の人」がドングリの背比べで教養がない場合に採用の傾向が簡単に硬直化して「外からの風」を取り込みにくくなる。
そして最後に日本の場合の問題は、博士も民間人も(大学の)教育に関する系統的なトレーニングが欠如しているということだ。この部分が「博士」「民間人」いずれを採用するにしても問題だろう。参考:大学院教育で何が出来ると人が育ったと言えるのか - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing


今日の格言:「天に唾する」

*1:蛸壺化は専門性が深化したら仕方がないと思う。それよりも「井の中の蛙」化が問題なんじゃないの。