大学入試はクソ、あるいは並べて読むと味わい深い
これらのエントリを並べて読んで、結局「勉強する」って何なのだろう、「一人前のオトナになる」「自分の稼ぎで飯を食う」って何なのだろうと考え込んでしまった。
hamachan先生のブログ。
大学教育の職業的レリバンス
大学は何をして生き残ることができるのか by 原田泰: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
(多分、高校までの)職業的レリバンス、職業教育と進路選択の背景となる思想について
「職業教育によって生徒は自由な職業選択が可能になる」はずがない: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
現在の(多分)「標準的(で強制的な、唯一の)」教育コースから外れた子が生き生きと勉強していることについて。
中学校で不登校の子が職業訓練校で皆勤賞: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
僕自身は「入試」そのものは教育的な行為ではないことを、かつて日記に書いた。だから「入試にチューンされた」勉強というものに、「一人前のオトナに育てる」という点に関して、一抹の疑念を抱いている。
入学試験とは学力を測る行為ではなく、 学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。 東大、京大に入った人は、 学力があったから入ったというよりは、 そのときの受験生集団、そのときの問題に関して 点数がたまたまボーダーラインの上にいたというだけである。 出題された問題によってボーダーライン付近の人間は ごっそりと入れ替わる可能性がある。 もし本当に学力を測っているのならば、 入学定員に関係なく 「学力水準」を達成した人に入学許可を与えるというのが、 スジが通っていると思う。 教員と教室をどう割り当てるかという経済的な理由があるから、 学力に拠らず毎年、一定数の学生を入学させているのである。入学試験とは学力を測る行為ではなく、 学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。 だから良い入試問題とは、 (1)その大学のその年の受験生集団に対して、 (2)点数の分散が大きくなる (したがって線引きがやり易い) ような、 試験問題である。 東大にとっての良問を岡山理科大に出しても誰も解けないし、 岡山理科大にとっての良問を東大に出しても点差が付かない。 自分の大学の「身の程を知る」ことが良い出題の前提条件である。
入学試験とは学力を測る行為ではなく、 学力をネタに足切りの線引きを行う行為である。 それでは本当の学力測定はいつ行われているかというと、 (敢えて言うならば)志望校を選択した瞬間であろう。 そこで自己の学力に対するシビアな評価が行われている。 (ただしこの議論がデタラメな理由は、 (1) 例えば「○○が勉強したい」とか「○○先生に師事したい」 といった動機付けを無視している点、 (2) 学力がいわゆる偏差値による大学ランキングと 強い正の相関を持つ という仮説を採用している点にある。)
http://ud037.are.ous.ac.jp/d200311.htm#1116