本田由紀, 『教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ』, (ちくま新書, 817, 2009年)

教育用の覚え。最近、読了して、2回目。メモを残してみる。
目次

  • 序章 あらかじめの反論 007
  • 第1章 なぜ今「教育の職業的意義」が求められるのか 029
  • 第2章 見失われてきた「教育の職業的意義」 059

    [乱暴なまとめ]日本的雇用慣行の誕生・発展と教育の職業的意義の喪失のプロセスは歴史的に見ると高度経済成長期以降に協調的に起こっており、その背景として経済成長に伴う旺盛な労働力需要があった。この歴史の中で成熟した雇用慣行・教育のシステム*1がバブル以降の伸びの見込めない労働力需要を背景にして問題を引き起こしている。職業レリバンスを欠いた教育のシステムもその現状に対応できずにいる。

  • 第3章 国際的に見た日本の「教育の職業的意義」の特異性 103

    [乱暴なまとめ]日本の学生は「学校で習ったことは社会に出て役に立たない」と感じているが、これは国際的に見てもきわめて例外的なことであり、問題である。

  • 第4章 「教育の職業的意義」にとっての障害 133

    [乱暴なまとめ]現在の「キャリア教育」は学生・生徒に「勤労観・職業観」「意思決定能力」「将来設計能力」を持たねばならないという圧力になっているだけで、これらの能力を育成する教育プログラムになっていないので、若者にとって混乱、困惑が増大している。

  • 第5章 「教育の職業的意義」の構築に向けて 165
  • あとがき 219

図版出典

p.114 図3-4 学習と仕事を関連付けて考える者の割合
平成20年版 労働経済の分析−働く人の意識と雇用管理の動向−(平成20年版労働経済白書)第2章 第1節 p.100 
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/08/dl/02_0001.pdf

抜き書き

教育内容の実質的な「意義」ではなく、学業成績が進学のための選抜基準とされているということのみが学習の動機づけになっているような日本の教育、とくに高校教育の問題は、過去から繰り返し指摘されてきたことではある。しかし、その問題が依然として解決されておらず、また大学の入学者選抜が、一部の選抜度の高い大学を除いて弛緩しつつあることにより、従来の学習動機すら弱体化している現在、「職業的意義」を含む高校教育の「意義」全般について根底的な再検討が必要とされている。(p.114)
筒井美紀は、大学生に対する調査データの分析から、「労働の実態・制度・構造に関する知識の摂取が不足しているほど、成果主義を信奉するほど、労働行政の役割を等閑視するほど、将来の就労に自信があるほど、自己責任論に賛成である」という結論を引き出している。その上で、「〈キャリア教育〉に熱心に取り組んでいる教員や学部講師の方々は、意図せざる結果として自己責任論を素直に内面化した「新自由主義市民」を育てることに加担してしまっていないかどうか、自問されてみる必要があるのではないか」(p.160 一部改変)

いろいろメモ

  • 現在の日本の雇用慣行(メンバーシップ型雇用)は日本の「固有の文化」などではなく、高度経済成長期の旺盛な労働力需要を背景とした「社員の囲い込み」が元になった、きわめて特殊な条件下で発達した制度である。現在の状況の問題の背景のひとつとして、この雇用慣行を支えていた労働力需要が失われていることがある。(第2章の記述の乱暴なまとめ)
  • 現在の経済的、社会的情勢において、日本という「先進国」の産業にとって「職業的意義のある教育」の内容はどのようなものか。たとえば世界的に見て製造業の中心は賃金の低い国に移ってしまっていて、価格競争の面で不利になっている。高価、高付加価値のものを作らない限り太刀打ちできないだろう。「習ったことをそのまま仕事で使える」場面は減るのではないか。
  • 社会を支えるインフラのバックボーンとなる科学・技術の水準が上がっているので、職業レリバンスとしての教育の水準の平均値も上がらざるを得ないのではないか。つまり「大学」教育の必要性は上がるのではないか。
  • 教育システムが職業レリバンスを欠いた方向で「進化」してしまったので、修正には大きなコストがかかるのではないか。工学部は比較的、修正が容易であろう。

*1:このような雇用と教育の関係を「Jモード」と呼ぶ(p.118参照)。「各大学の入学者選抜が学生の基礎学力水準の指標を提供し、企業はそれを基準として大卒者を採用したのちに、企業内で必要な限りの職業知識を実践的に習得させる」こと。