「3×5≠5×3」なんて指導するくらいだから、「日本人には創造性が無い」「創造性の芽を潰す」と言われるのももっともだ

注:2010.11.18に「追記」を書いた。それと同時に表題を『「3×5≠5×3」は「ノーマライゼーション」あるいはその逆の「ファシズム」の問題だ、「算数・数学」の問題ではない!』から変えた。
村上春樹の『卵と壁』を念頭におくと、ここには二人の『卵』がいる。ひとりはもう既にフルボッコ状態のトピ主の教師であり、もうひとりはこの教師に算数を習う児童である。ここでは幼い『卵』を擁護する。
かけ算の5×3と3×5って違うの? - Togetter

まず、これは思想統制であり、ノーマライゼーションの逆である

これを「算数・数学」の問題としてみるから議論が平行線になる。これは「ノーマライゼーション」あるいは逆の「ファシズム」という文脈で捉えるとすっきりするはずだし、ひょっとしたら建設的な議論ができたかもしれないとも思う。
極端に簡略化して言うと、児童全員に同じ解法を強制している(試験でバツをするというのは「強制」の印である*1)ので、これは解法、考え方の多様性を教師の権力で認めないという意味で思想統制である。
ここにはどのような社会でも必ず存在する「極端な人」---それはちょっとませた秀才かもしれないし、学習障害の人かもしれないのだが---の「その人にとっての、その人の発達段階にとっての合理性」を踏みにじるものがある。
例えば Togetter での irobutsu さんの反応を見ていると、算数、数学の用語にあふれてはいるけれど、「児童の置かれた状況を勘案せずに、解法を強制するなんて、反自由主義的な行為が正当化されるの?」と読み替えるとすっきりする(とあらきには思える)。
これは教育法の問題ではなく、「ふつう」からはみ出てしまった子供に教師はどう接するべきかという問題なのである。

教育の目標は、本当は何なのか?

この議論の中で非常に気になったことは、目先の教育法に対して議論が集中してしまい、本当は子供をどのような状態に育てたいのかという目的を忘れていることである。正直言うと、大学教師も何人も参戦していて、こんな目先の議論に終始しているというのが情けない。
おそらく教育の目標のひとつは、最終的に「中学を卒業する段階で負数も含めた四則演算の計算ができ、現実問題への応用ができること」にあるはずであり、その最終目標に近付くルートはひとつではあり得ないし、今回の積の演算をどう教えるかの話もその遠大なプロセスのごく一部にすぎない。
おそらく大半の児童にとってはこの方式での教育が合理的な方法のひとつなのであろう(ただし数学を教えている身として考えると、「ベストの指導法がひとつ」という発想*2は算数・数学教育の最悪の敵である)。問題はそれに乗れない児童に対してどう接するかという問題である。
ここで「乗れない」ごく少数の児童に対して、この先生は「ペケを与える」という態度で臨んでいる。ここに欠けているのは「ペケ答案には、ペケ答案に至るまでの、その児童にとっての考え方の筋道」があるはずだという認識である。とくにここで問題になっているのは「3×5」と「5×3」という「正しい値を出す演算」である。その「誤答」にいたる筋道を掘り起こしてみるべきではないのか?ひょっとしたら可換性の概念やイメージを既に持っていて、どっちでも良いと知った上で急いで答案を書き殴ったかもしれないし、逆になんらかの学習障害を抱えていて、図式的思考がこの答案の順番以外ではうまくいかないのかもしれない。それは丁寧に聞かなくては、わからないことである。
理科教育の専門家の左巻さんのエントリに子どもの認識にゆさぶりをかける授業を(20余年前に書いた小論) - samakikakuの今日もワハハ SAMA企画がある。その中にこうある

学校には、正答主義という、おかしな考えがいきわたっているような気がしてならない。
 正答主義とは、正しくないと答えとして認めず、まちがいをバカにする考え方だ。ハイッ、ハイッといきおいよく手があがるが、さされた子どもがまちがうと周囲から笑いがおこり、まちがいをいった子どもは下を向く・・・なんて光景がよくみられるのである。
「3×5≠5×3」には二つの悪しき「正答主義」がある、ひとつは「3×5≠5×3」そのものだが、もうひとつは「この指導法が正解という教師の態度」である(これはエントリhttp://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/において「説明」はあっても「批判的分析」が無い*3ことから明らかである)。どのような教育手法にもその長所と短所があり、時と場合に応じて手法を使い分けるべきである…ということがこのトピ主教師の頭の中からすっぽりと抜け落ちているようである。

このTogetterの「読者」のあるべき態度

最後にもうひとつの『卵』も多少は擁護したい。
まず小学校の教師の業務内容、教育内容は多岐にわたる負担の多いものである。それから現在の初等教育の現場の困難を新聞等で見聞きして、それを勘案すると、この程度の杓子定規はある程度、がまんして、家庭での学習、会話などでカバーすべきものかもしれない。なぜなら現場の困難は、教師にその解決を押しつけるものではなく、児童とその保護者が家庭環境も含めて協力して克服しないといけないからである。おそらく家庭でこんな声かけをして、この差別主義的な部分をカバーすべきであろう

先生も大変なんだよ、ちょっとだけ我慢しな。おとなになったら掛け算の順番なんて大したことはないんだよ。
子供の成長を長い目で見て、目先の事をしれっとやりすごすのも、親の持つべき「大人の知恵」なのではないか。

追記 2010.11.18

3x5と5x3問題に文句を云っている人に言いたい
増田氏の「答えを出す過程が大切」という意見には同意する。でも算数、数学の持つ「抽象化の力」への洞察が足りないんじゃないかと思う。
いままでのあちこちの議論を読んでいてきちんと書かれていないなと思ったことは、「3×5」にしても「5×3」にしても紙の上に書いた時点で思考の過程の痕跡をきれいさっぱり消し去るということ。(3や5に「単位」をきっちりと書き添えたら話は違ってくるけど、そんな指導はしてないみたいだよね。)
「どっちだっていいじゃん」派は、思考のプロセスはいろいろあるはずだから、演算の順序を無理に一個に統一しなくてもいいんじゃないかと思っている。それに掛け算の順番ひっくり返しても答えが同じになることは、九九の表を覚えされられたときに気付くんじゃないかな。
だから、ぼくは「式を書くときに単位をきちんと書かせるようにします!」と擁護派が主張したら、議論はピタリとやんで、みんな納得しちゃうんじゃないかと思う。だって批判派は「それなら逆に書いても思考の痕跡は残るから」と思うだろうから。(でも2年生の全体に「単位」の考え方って教育できるのかな?)


算数の式を書いたときに思考過程の痕跡が無くなるから、その式では見えない思考過程をちゃんと子供に聞こう…とボクはこのエントリで主張した。
算数の式を書いたときに思考過程の痕跡が無くなるから、その式はどんな思考過程を経ているのか、どんな思考過程があり得るのか色々と沢山考えて見るべきなんじゃないかな…その答案を書いた人の思惑を越えて…とぼくは思う。
ちょっと極端な例を挙げよう…運動方程式だ。
運動を記述し計算をするだけならば、ニュートンの方程式だけで十分だ。でもニュートン運動方程式を式変形してラグランジュの運動方程式にすると、例えばロボット工学で多リンク系の運動を深く考えずに…でも100%正確に記述するのに便利だし、ハミルトンの運動方程式にしたところから光学と力学の類比ができて、それが量子力学波動方程式につながっていく。つまり式に対する見方をひとつに固定しないおかげで、世界を把握する力が増えていくというわけだ。


ぼくはかつてこれを嘲笑うぐらいだから、「日本人には創造性が無い」「創造性の芽を潰す」と言われるのももっともだ - あらきけいすけの雑記帳というエントリを書いた。「エネルギー保存」なんて正しい知識を杓子定規に振り回したって創造性にはつながらないぜ、極端なことを考えてみていろんな可能性を考えてみようぜと言いたかったんだ。
そんなボクの目から見ると「3×5≠5×3」は、先生が算数・数学の持つ「抽象化」の力を把握していないし、先生が具体的なものと抽象的なものの間の思考の切り替えが十分にできていないから、杓子定規になってヘンテコな主張になるんだと思う。「単位なしで式を書く」ということは猛烈な抽象化だから、そこに具体性の痕跡を残せというのは、算数の本当の力を殺いでいる。


「3×5」と書いた瞬間にそれまでの具体的なイメージは消滅する。そしてそこに新しいイメージで物事をとらえ直す可能性がでる。ボクは増田氏が算数のもつ本当の力、抽象化とそこから想像力を広げることで世界を広げることが出来ることを理解していないことにショックを受けている。


こんな思考に枠をはめる杓子定規が、なかなか大きな新しい産業を興せないでいる日本にとって、一番不要なものじゃないかな。


*1:http://kidsnote.com/2010/11/15/35or53/の写真を参照のこと。

*2:「指導法はひとつと考える人」ではなく「指導法はひとつという考え」が敵なのである。ただし現実の授業ではどれか一つの方法を取らねばならない。二つ以上の方法で2回指導したら児童が混乱するだろう。

*3:「批判的分析」が無いとは、一体、大学で何を習ってきたのかね?