ニュートンの運動方程式に関する覚書*1

ニュートン運動方程式は m aF1+F2+…, すなわち「質量 m の物体に生じる加速度ベクトルはその物体にかかる力のベクトルの総和に等しい」なのだが*1、実際に物体が運動しているところを観察しているときに m と Fj のいずれが既知なのかで式の捉え方(あるいは意味)が変わる。

…ところでこの運動方程式は、与えられた力から運動を予測し決定する因果方程式と考えられ、またあるときは観察された運動から力の関数形を決定するいわば力の定義式とも見なされ、そして現実にはしばしば同時にその両者である。
山本義隆,中村孔一,『解析力学1 (朝倉物理学大系)』(朝倉書店,1998)p.1-2

あるブログで「力の定義式と見るべきでは」という意見を拝見したが、現実の物体の運動を考えると、その物体にかかる力が1個しかないということはあり得ないので、「合力がいくらか」を見ることは出来ても「ある力はいくらか」というのはロジカルにはありえない。もちろん沢山あるうちのただ1個がとても大きくて目立つ、だからその目立つ1個の力の法則性を観測から導き出すということはあり得る。たとえばキャベンディッシュの重力の実験なんかはそう(だと思うけど、ちがってたらごめんなさい)。そんなとき「その他もろもろの力」は小さなノイズ。データにはもちろんそのノイズが乗っている。そのノイズの影響を勘案して法則性を調べないといけない。

さてこの段落は次のように続く(ここで「力学」という用語は「数学的な(あるいは言い過ぎかもしれないが演繹的な)論理的手続」という意味で用いられている。この使い方は初学者には捉えにくいだろう);

運動方程式のこの両義性は、ニュートン力学が「物質(物質的物体)」と「場」を別種の実在と見なし、場についての法則は力学の外に与えられたものとして扱い、そして場の個別物体への作用を「力」という抽象概念にまとめあげたことの結果である。…
山本義隆,中村孔一,『解析力学1 (朝倉物理学大系)』(朝倉書店,1998)p.1-2

ニュートン力学は、この「物質と力の分離」「『質量』と『力』による運動の量的な特徴づけ」を基にして、自然を理解しようとするのだが、これが小島先生が引用しておられる

以上の議論でわかるように、力学の原理において力はきわめて重要な役割を果たしている。しかし現実にはどのような力が存在するのか、それらの力はいかなる性質をもっているのかは、一般に経験事実として与えられていると考えなければならない。つまり古典力学の内部で論理的に導き出せるものではない。
隠れて物理を勉強する - hiroyukikojimaの日記の中の「新・物理入門 (駿台受験シリーズ)」の引用
の部分につながっていく。ここで言いたいことは重力や静電場が逆2乗力だというのは、ここでいう「力学(の内部)」すなわち「運動方程式の立て方、解き方の論理体系」とは関係がないということ。別に逆5乗力でも力学の原理、式の立て方、解き方の方針は揺らがないということ(具体的な積分計算の結果とかは変わるけど)。

…で、ここまで書いて、ハタと悩んだ。

流体力学の中に、観察しなくても関数形が決まってしまう力がある。

非圧縮性流体(液体の力学モデル)の運動に伴う圧力である*2。カテゴリー的には「拘束力」になる。

*1:これは僕の個人的な見解なのだが、運動方程式を「F=ma(えふ・いこーる・えむ・えー, F is m times a)」と書くと、F がSVCの文型の主語、maが補語になってまずいと思う。というのも、論理学的にはSVCの文型ではSに「(Cとの関係において相対的に)個別の事物」、Cに相当する部分には「Sを規定するもの(カテゴリー、述語)」が来ないといけない。ここで ma=F と書くと「個別の物体の運動は力(の総和)で規定される」という含意が自然に生じるが、F=maでは「力は個別の物体の運動で決まる」という含意になるようなキモチがするし、力が1個しかかかっていないような気分にもなって、個人的にはキモチワルイ。まあ数式を解いて答えを出すだけならどうでもいいけど。

*2:圧縮性流体の運動の場合にも、非圧縮性成分の運動の寄与を熱力学的な圧力から数学的、形式的には分離できそう。ただ圧力の速度場の圧縮性成分からの寄与と非圧縮性成分からの寄与を分離して観察できるかどうかについては分からない。こんな区分は数式を解いて答えを出す、たとえば乱流の性質を調べることが大事なのでどうでもいいけど。