PTSDという表現は安易に使うべきじゃない、とは言うものの

増田を読んで、こころに思うことを自分のために書きとめる。
増田:こりゃPTSDになったかもなあ
「それから2ヶ月ほどが経過した。(途中略)テレビで唐突に葬式のシーンが流れるだけで嘔吐する時もあるそうだ。」という記載を見ると、結構つらいものがある。人の死の経験は、子供から全く遠ざけてやるのも良くないが、その子のキャパシティを大きく越えた経験の「奔流」のようなものをぶつけるのも考え物だと思う。避けるべきという増田氏とそのおかあさんの意見にも、強烈な経験をぶつけたこの子の親の判断にも、ボクはギモンをちょっと感じる。「小さい子供は足手まといだから、ちょっとあっち行ってなさい」くらいの大義名分+距離感での接触がいいんじゃないかと個人的には思う。
この登場人物たちの誰彼が悪いってものではなくて、この人々ひとりひとりの「日頃の経験」と「この時の経験」のギャップが大きかったのが不運であったと思う。「不運」というものは、人間の知恵でコントロールできるものではない。
この子のおうちには仏壇はあったのだろうかとも思う。仏壇は座敷わらしのような「死」の記念碑だ。「人間はいずれ死ぬものだ」「自分には祖先がある(みな、自分ひとりで育ったわけじゃない)」という事実が部屋の隅っこにいるのだ。『自分という存在』は『自分一人で自由に処分できる自分一人の持ち物』ではないということを空気のように自分の中に吸い込むよすがになると思う。もちろん毎日のように合掌してご挨拶をする習慣とセットになっていることが大事。
この増田を読んだことが最終的なきっかけになって、最近、舜の耳元で「じいじの ぱぱと ままと、じいじの じいじと ばあば、おはようごじゃいます。のんのん」とボクが唱えつつ、舜に仏壇に向かって合掌させるようになった。舜、お輪を鳴らすのが大好き(いや、それはオモチャじゃないんだよ)。これも長期にわたる継続が大事。