自分のための覚書

  • 地震から3ヶ月
  • どう評価して良いのか分からないことのひとつが、福島第1原発は収拾の目処が立たない大事故になったが、福島第2や女川の原発はきちんと止めることができたということ。後者は「マグニチュード9クラスの大地震にも耐えた」という事実が残った。ただし地震による劣化はあるだろうから再開はとても難しいだろう。
  • 自然災害は原発を同じように襲ったのかもしれない。そして一番、脆い部分が壊れた。いろいろなものやシステムが一番、脆い部分から壊れてしまうのは自然なこと、物の道理である。だが脆い部分を放置したのは人災だろう。
  • これは技術の能力としては高いが、管理運営、とくにリスクマネジメントの能力が低いことを全体としては示しているのだろう。これはチグハグな状態であり、全体として考えると、日本は原発を持ってはいけない国だ、わたしたちは原発を抱えてはいけない文化、慣習、社会機構を持つひとびとだということを示しているのだろう。
  • この3ヶ月の間に学んだことのひとつに、放射線の健康に与える悪い影響について評価がひとつに固まっていないということがある。
  • 評価は全体としては固まっていないが、どの意見でも固まっていることは、それが「確率的」に捉えられる事象であるということだ。つまり「何人中の何人は何になるだろう」であって、「わたしは(家族は)どうなる」という問いに直接は答えないということだ。
  • しかし国全体で考えれば「確率」は「人口の何パーセントにあたる人数の誰か(それはわたしかもしれないし、あなたかもしれないし、確実に誰とは言えないが、その人数の人)は確実に何になる」ということだから、この「確実に何になる」の部分を避ける/放置するという決断は必然的に下さないといけない。
  • 実際に国が行った決断、施策のひとつが「基準値を変える」であった。これは健康への影響の評価を「なんらかの都合」によって変えるということである。ものさしは「変化しない」「共通である」ことを保証するから信頼される。これまでのものさしは何だったのか?ものさしを都合で変える統治制度を信頼できるのか?信頼できないと前提した場合、わたしにはどのような行動のオプションがあり得るのか?
  • これは「逃げる/逃げない」の決断を、国のレベルの施策の段階では信頼できず、個人の情報収集と判断のレベルで実行しないといけないということだ。なぜなら「いままでなら被害が出る」と言っていたものを「被害はない」とひっくり返したからだ。被害はあるのか、ないのか。
  • 一番、面倒だと思うのは「信頼できる部分」と「信頼できない部分」が混ざって、受け手側からは分離が容易ではないことだ。一番、効果的にウソをつく方法は、正しい情報の中にこっそりとウソを混ぜることだ。
  • 結局、ボクは「もし自分がその状況に巻き込まれていたら、子供を疎開させたか?」という問いには答えられていない。特に「3月11日からの約10日間に、適切に家族を逃がす」ことができただろうか?あの「メルトダウンはありえない」という言説が飛び交っていたあのときに。
  • そのときにどのような言説を頼るべきだろうか?おそらく公表された数値と事象から、冷静に現状を推測するよう牧野さんの日誌のような言説か。
  • 放射性物質を、例えばひまわりを植えて、集めるというアイディアがもてはやされた。しかしそれは「放射性物質を無毒化する」ということではない、放射性物質が移動するだけだ。残念ながら「コスモクリーナーD」ではない。放射性物質を生体濃縮し、放射線をたっぷりと抱えたひまわりを誰が刈り取るのか?どこに集め、捨てるのか?という基本的な問題は無視されていた。これは理科のリテラシーの問題だろう。
  • いくつかの報道を見ると、東京においても、降下した放射性物質が水とともにかき集められ、下水処理施設の汚泥の中に濃縮されてきているようだ。放射線管理区域外に放射性物質が蓄積されている。
  • 放射線ホルミシスという「現象」がある。最初はアホかと思っていたが、「低線量下で荷電粒子の作ったラジカルに対する抗酸化物質による還元やDNA損傷の修復機能の活性の増加」と説明されると、端から否定するものでもないように思える。ストロンチウム汚染地の動物繁殖の実態とその理由…ドキュメンタリ「被爆の森はいま」【動画&文字おこし3】 : 座間宮ガレイの世界これはこれで自分と家族がその抗酸化作用やDNA修復の生理機能が強い(強くなり得る)のかどうかという問題もある。
  • 原発事故関連で、科学コミュニケーションに関する愚痴にも似た意見をいくつか見た。
  • 私にはこれについて語る資格はない。ただ私には「自分は自分の家族を疎開させるか?」という切実さと、入手可能なデータから現状をきちんと推定する冷静さの双方を、一般市民として持ちたい。それに基づき「(他ならぬ)わたしが」どう行動するのかという選択の問題だ。
  • 今回の科学コミュニケーションの「悩み」のいくつかは、個人の行動に影響を与える知識の提供の重さにある。しかし公共の福祉の名の下に私権を制限できる政策決定者ではないのだから、その重さを引き受けてはいけないだろう。「自分と家族の健康と安全のために、科学的、批判的に検討した情報を公共の場に整理して置いておく」というプライベート以上のモチベーションを持ってはいけないのではないだろうか。他人の行動に影響を与えたいという思い上がった欲望が(本人も気付かぬうちに本人の心の奥底に)ある限り、この苦しみから逃れられないだろう。